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 そうこうしているうちに、あっという間に三月も半ばになった。来週からはもう春期講習が始まる。そこでかねてからの予定通り、6年生のために今年の卒業生、楠田正一郎を校舎に呼んで、檄を飛ばしてもらうことにした。算数の時間の最後を15分ほど削って、みんなの前で話してもらう段取りだ。学校の登校日だったらしく、制服姿で現れた正一郎を見て、生徒たちから

「あ。臙脂の校章だ」

というささやきがもれた。子供達にとってはこんな細かいことも憧れの対象なのだろう。

「知っている人も多いと思うが、君たちの先輩の楠田君がみんなを励ましにきてくれた。わざわざこのために来てくれたんだから、みんなしっかりお話を聞くように。後で質問コーナーを設けるから、聞きたいことがある人はそこで手をあげて聞いてくれ。いいかな?それじゃ、お願いします」

少し照れたような笑みを俺の方に見せた正一郎だが、すぐに後輩達に向かって堂々と話し始めた。まだ13才にもなっていない子供らしい横顔には、見蕩れてしまうほどの頼もしさがあった。

「こんにちは。早稲田大学高等学院中学部の楠田正一郎です。今日は、みなさんに二つのことを聞いていただきたいと思います。一つは、みなさんには全員、ものすごい可能性があるということです。一年間という時間は、一所懸命になって過ごせば、信じられないくらい大きな変化を与えてくれます。僕なんか6年の初め頃は全然できなかったし、うちの学校なんて目標というよりも遥か彼方の夢みたいだった。それでも最後には、こんな僕でも合格できたんです。みなさんも頑張ればきっと高い目標に合格できると思います。絶対に受かる、なんて言えないけど、その可能性は充分あると僕は思います」


 生徒たちの顔を見て驚いた。全員がこんなに集中して真剣な表情で食い入るように人の話を聞いているところは見たことがない。


「もう一つは、始めるんなら一日でも早い方がいいということです。中には、あんまり早くからガリガリ勉強してもどこかで疲れちゃうんじゃないか、って思う人もいるかもしれません。でも勉強って、まあ勉強だけじゃなくて他のことでもなんでもそうなんだと思いますけど、やればやるほど、次の課題が出てくるんです。やってないと何が自分の課題なのかわからない。そういうもんなんです。だから後から後から山ほど出てくる課題を少しでも多くクリアして、少しでも上にいきたいと思ったら、できるだけ早く始めた方がいいんです」


 前回の保護者会同様、話の内容は彼に任せてある。しかし、なんていい話をしてくれるんだろう。全く感心してしまう。元々、国語はできる子だったが、それにしてもだ。塾講師の俺たちが伝えたいようなことを過不足なく、ものすごい説得力で話しているんだから、まったく恐れ入る。

 生徒たちの反応も予想以上だ。皆、目を輝かせている。中でも一番真剣な顔をしているのは、織田だ。だから、おまえはいいんだって、もう。

 感心して聞いているうちに予定の時間が過ぎ、質問コーナーになった。

たくさんのまっすぐな手が上がった。

「あの、苦手科目とか苦手単元とかはありましたか?あったら、どうやって解決したんですか?」

あのバカタレの大悟とは思えないようなちゃんとした質問だ。

「僕は算数が苦手でしたね。国語はまあまあだったんですが、いつも算数が足を引っ張って4科の偏差値が上がらなかった。特に図形が苦手で、全く解けなかった。僕って、センスとか全然ないんですよ。他の人達みたいにひらめきっていうのがなくて、習ったことをそのままやることしかできないんです。だから、丸木戸先生にお願いしてできるだけたくさんの解き方をプリントで書いてもらって、何回も練習しました。これは春期講習とか夏期講習とかの学校が休みで時間があるときにやりましたね」


 そうだ、そうなんだよな。なによりも努力家だったんだ、正一郎は。自習室でいつもカリカリやっていた後ろ姿を思い出したら、ぐっときてしまった。


「しんどいとかつらいと思ったときとか、やめたくなったことはありましたか?」

いつものほほんとしているりるも真剣なまなざしである。

「う~ん。それはもう、いっぱいありましたね。僕は10月くらいまであんまり成績が上がらなかったんです。やってもやってもほんのちょこっとしか上がらない。逆に下がったりした事も何回かありました。泣きそうになりましたよ何回も。でも塾に来て授業に出たり、自習室で勉強してるとなんだかだんだん気持ちが強くなれて。だから頑張れた。でも、一番つらかったのは1月校に落ちたときでしたね。泣きそうじゃなくて、あの時はほんとにガンガン泣きました。目の前が真っ暗になりましたね」


「じゃあ、うれしかったことはなんですか?」

めったに口をきかない充まで質問だ。

「それはもう。みんなわかると思うけど、早稲田に受かったときです。3日の慶應中等部を受けにいってて校門を出たところで発表を見にいってたおかあさんから携帯に連絡が入ったんです。ヤッターー!!って道の真ん中で叫んじゃいました。みんなこっちを見てたけど、そんなのどうでもよかった。うれしくてうれしくて、帰り道では、確かに地面を踏んで歩いてるんだけど、なんだか足が地面から離れて体が宙に浮いてるみたいな感じなんです。ほんとに。あんな感覚は初めてでした」


 次から次の質問攻めで、結局、次の休み時間が終わるまで、正一郎は離してもらえず、国語の授業の開始チャイムが鳴ってやっとお役御免となった。


「いやあ、本当にありがとう正一郎。すごくよかったよ。みんなの刺激になった」

様子を聞いていた司馬校長も

「楠田君、ありがとう。これは感謝のしるしだ」

といって、図書カードを渡した。塾から出るわけはないから、校長の自前だろう。出口の階段まで正一郎を送って、改めて礼をいった。

「ありがとうな。しかしおまえ、人前で立派に話せるじゃないか。感心したぞ」

「いいえそんな。でも僕、塾に本当にお世話になったから。塾のおかげで受かったんですから、みんなを励ますくらいはさせてもらわなくちゃ。先生、呼んでくださって、ありがとうございました」

「うん。またな。たまには顔をみせてくれよ」

「はあい」

階段を降りて去っていく正一郎の背中を見て、1ヶ月前よりも少し大きくなったなと思った。この年齢だから短期間で大きくなるのはある話なのだが、彼には自分の未来をつかんだ、という自信と心の張りがみなぎっている。それが背中に現れているのだろう。去年の今頃は目立たない新6年生だったのに、この成長ぶりだ。うれしいもんである。正一郎の背中を見送って、なんだか満ち足りた思いを感じていた。そうなのだ。俺たちは、いつもつい生徒に与えているつもりになっているが、その実、生徒からもっと大きなものを与えてもらっているのだ。


 教室の前に戻ってみると、菅生君の国語の授業を受けている連中の後ろ姿がすごい。まるで「気」の柱が立っているようだ。菅生君もいつも以上にテンションがあがってるようだった。


 翌日は6年受験組の授業はない日だったが、自習室をみるとなんと満席になっていた。みんな塾に来て自習室に籠って勉強しているのだ。正一郎効果は絶大だった。まあ、いつまで続くかは怪しいもんだが、今の状態はすこぶる良好。大いに結構だ。

 

 昼に春生のおかあさんから電話をいただいた。おかあさんは受験をやらせる気になっていたものの、どうもおとうさんがしぶい表情だったらしいが、夕べ春生自身がおとうさんに

「最後まで一所懸命がんばるから、やらせてください」

と直談判したらしい。我が子にこんなことを言われて、それを拒む親などいない。志望校はまだともかく、一年間受験勉強をがんばる、ということになったそうだ。奴も早速、自習室に来てカリカリやっている。あとで眠くなってうつらうつらしないうちに励ましにいってやろう。来週からはいよいよ春期講習が始まる。いい状態で講習に入れそうだ。正一郎には改めて感謝している。


 

 講習期間中は学校がないので、当然、朝から授業がある。俺たち講師や事務スタッフは、通常は夕方前からの勤務なのが、朝からの勤務に切り替えになる。毎晩、仕事の後に飲みにいく俺や菅生くんは特に生活の切り替えを強いられるから、最初だけちょっとキツイ。この機会に言っておくが、塾の先生には大きく分けて二種類ある。タイプとかそういう話ではなく、制度上の話だ。一つは司馬校長のような、塾に社員として雇われている先生だ。社員であるから勤務時間も大概午前からで、日によって本部に集まって会議やら、半期ごとの収益ノルマやら、生徒を教える事以外にいろいろ校舎運営にまつわる業務がある。そのかわり諸々の社会保障は会社がもってくれる。

もう一つは俺や菅生くんのような、授業だけで雇われているバイト扱いの講師だ。時間講師とかいうのだが、これは会社運営の諸事を免除されているので気楽だが、そのかわり社会保障もボーナスもない。まあ、フリーターなのだ。もちろん生徒や父兄から見て、同じでなければならないし、指導力、授業のうまさなどは制度の違いとは関係がない。人にもよるが、時間講師は授業だけしかやらないから夜型人間になっているケースが多く、朝からの授業が始まると初日が少々きついという訳だ。菅生くんなんか若いから前日飲んでてもへっちゃらそうだが、俺は40ともなるとやっぱり影響は出る。じゃあ、講習前日は飲まずに早く寝るか、といえば、まあそんな性格だったらそもそもこんな浮き草稼業の時間講師などやっていないだろう。講習前日は、通常授業終了おつかれ会(そんな名前つけてる訳じゃないが)でいつもより勢いよく飲んでしまった。


 翌朝、なんとか目覚まし時計に反応して、シャワーを浴びて、出勤してきたものの気分はシャキっとしない。当たり前だな。こういうバカを何度くり返してきた事か。このままでは講習初日のテンションを上げられないので、ビルの屋上にいって軽く体操をすることにした。体を動かして朝の空気をいっぱい吸い込んだら、少し気分が良くなってきたので、ボチボチ戻ることにして外階段を降りようとしたら、そこによく見ないとわからない程度の、でもちょっと見て欲しそうな微妙な大きさの落書きを発見した。といってもただ「アホ バカ」と書いてあるだけの何のひねりもない、至ってシンプルなものだが、ついこの間来たときにはなかったから、ごく最近に書かれたようだ。どうも何かに腹が立って怒りをぶちまけた、という感じではなく、何か落書きをしたくて、なのにこれしか思いつけなかった、という儚さが漂っている。こんなことする奴は、といえば真っ先にバカタレの大悟の顔が浮かぶが、これは奴の字じゃない。それに考えてみればあいつは、陰に隠れて何か悪さをするタイプでもない。人が見ていようがいまいが関係なく我が道をいく。それが周囲とずれていようが、何をいわれようが、知ったこっちゃない。そういう奴だ。字をよく見てみるとどうやらこれは飯田の文字っぽい。だがそれだけでは確たる証拠とは言いづらいし、これでいきなり飯田を叱りつける訳にはいかないだろう。落書き自体もいけないことだが、それ以前に生徒にとって外階段と屋上は進入禁止区域のはずだ。まずこの線で当って反応を見てみることにした。

 授業は、予定通り初日らしくテンション上げ目でスタートした。みんなそれなりに集中して受けている。小1時間ほど経ったところで、問題を解かせているときに

「ところでおまえら、最近、塾の中をうろちょろしてやしないだろうな?」

と切り出してみた。さりげなく飯田の顔を見たが、無表情のままだ。これは怪しい。みんな「なんのこと?」という風にキョトンとした顔をしている中、飯田だけ無表情なのは瞬間的に「やばい」と思ったからに違いない。全員の顔を見渡すと、もう一人、南出が下を向いて問題を解こうとしている。これも同犯のようだ。俺が授業中に勉強以外のことをしゃべったとき、いつもそれだけは真っ先に反応する南出が、今回に限って問題に集中しているなんて、どう考えても不自然だ。どうやらこの二人で外階段からの進入禁止区域に入り込んだようだ。飯田の奴、証拠を残してきた事をきっと悔やんでいることだろう。もちろん今、授業中にみんなの前で取り調べを始める訳にはいかない。めぼしはついた。昼休みに二人を面談室に呼び出すことにした。


 校舎の屋内から外階段に至るルートは、二つ。一つは階段に直接出るドアだが、これは生徒が持てない鍵がかかっているので無理だろう。もう一つは給湯室の窓から外に這い出て狭い軒の上をつたって階段にたどり着く経路だ。給湯室は正確にいうと生徒は入れないことになっているが、ゴミを置いておくスペースにもなっており、時々生徒も何かのゴミをここに捨てにくることがある。グレーゾーンなのだ。ここを通って外階段に行ったのはまず間違いないだろう。お弁当タイムの後、飯田と南出の二人を面談室に呼んで取り調べに入った。神妙な面持ちで並んだ雁首二つを前に、できるだけ威圧感を出しつつ切り出した。

「おまえら二人、何日か前に屋上に行っただろ」

「・・・・・・・」

「外階段と屋上は生徒の進入禁止だって知ってるはずだ」

「・・・・・・・」

「禁止されてるのに、なんでそんなことしたんだ」

俺の精一杯の威圧もあって、知らぬ存ぜぬでは通せないと観念したか、飯田が話し出した。

「・・あの給湯室に割り箸とか捨てにいって、そしたら、僕の腕時計がパンってはじけて、どっかに行ってしまって、南出と二人で探してて、窓の外に飛んだんじゃないかって、探しに行って・・・」

「はあ? 南出。それは本当か?」

「・・・本当です」

「ほおう。じゃ、この話、君らのおかあさんに報告してもいいんだな。腕にベルトで付けてるはずの時計が何故かパンってはじけて、何故か窓の外まで飛んで、地球の重力に逆らって屋上にまで行ったかもしれなくて、それを捜索に行ったって。それで間違いないな」

「・・・・・・・」

「あのな。おまえらは軽く考えてるかも知らんが、あそこは危険だから生徒が行っちゃいけないことになっとるんだ。あそこから何かの拍子に落ちたりしたらどうするんだ?」

「・・・・・・・」

「地面のコンクリートに頭ぶつけて死ぬぞ」

「・・・・・・・」

「おまえらが頭割って死んだら、おかあさんはどんな思いすると思ってんだ!」

ここで二人ともヒクヒク泣き出した。男子なんで、あともう一歩、突っ込んでおこう。

「いいか。おまえらもこないだの先輩の話聞いて、自分も頑張ろうって思ったんだろう。多分、屋上に行ったのはその前のことだな。だったら今回は、誰にも言わないで俺だけの胸にしまっといてやる。そのかわり、今後は真剣に勉強に取り組め!俺や菅生先生から見て、『おう、飯田も南出も変わったな』って思えるくらいにやってみろ!」

二人ともヒクヒク泣きが止まらない。

「春期講習中も、それから先も、ちょっとでも気を抜いたら・・・そのときは、わかってんな!」

泣きながら二人揃って首を縦に振った。ま、この辺でよかろう。

「わかったら、教室に戻って、次の授業の準備をしてろ。それから、飯田。おまえ、もうちょっとはマシな言い訳考えろよ、まったく」

まあ、これで春期講習中は効き目があるだろう。大悟さえ抑えておけば、比較的楽に、余計なエネルギーを使わずに進めていけそうだ。


 6年生の春期講習には大きく二つの目的がある。5年生までとは大きく違う授業時間と宿題量に学校がない期間を使って慣れさせること。そして、各科目とも単元学習の難度がガラっと変わるので、その基礎を作っておくこと。この2点だ。学習量が突然倍増するのに対応できるには、やはり一緒にやるクラス仲間があった方がいい。自分一人ではめげてしまう。そして、中学入試というのはどの科目も大体中3~高校2年くらいまでの学習内容をこなすものだ。算数で言えば、等差数列の和やフィボナッチ数列など、俺自身は高校で習ったものが普通に出てくる。小学生でこれらを応用できるようになるには、それなりに基礎固めの時間が必要なのだ。この春期講習を乗り切ったら、学校の新学期を迎え、夜の時間帯にシフトを戻して、7月前半の大きな模試に向けて単元学習を急ぎ足で進んで一旦完了させる。そして7月下旬からは、受験の天王山、夏期講習に入る。こう見てくると春期講習のおろそかならざる重要性がわかると思う。しかし、生徒達にこういう話し方をしてもそれをリアルに納得できる子はごく小数だ。うちで言えば織田くらいだろう。だから何かのモチベーション作りが必要なのだ。今回は正一郎の力を借りることができたし、さっきの両名も思わぬ一件で引き締めた。今のところ、なんとかクリアできている、としておこう。しかし、まだ春期講習の初日だ。俺自身の気持ちも引き締めてかからないと全行程17日は長く、厳しい。




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