2016.05.24  Glory 5
 僕はそれまで、おかあさんが海外に移り住むことになったお兄ちゃん夫妻についていった理由は、僕とは一緒に暮らせないと思ったからだと考えていたが、そうではなかったそうだ。おかあさんが言うには
「まあ、そんなことよりも、将来まだ先の話しだけど、私の老後の面倒をだれがどうするかを考えたのよ」
ということだった。確かに否が応でも誰にでも順番に老いはやってくる。今はまだまだお元気であるけど、将来のことは考える必要がある。僕ら夫婦とお兄ちゃん夫妻ではどう比べても僕らの方が頼りない。頼りないというより自立すらあやしい。海外に移るにあたって、お兄ちゃんの最大の危惧はおかあさんの将来のケアであったそうで、そこでおかあさんが
「私が一緒に行けば、すべて丸く収まるんじゃないの」
と考えたそうだ。これは言葉で言う程、単純な話しではないと思う。言葉の問題、生活環境の変化、その他にもいろいろ壁があったはずだが、そこを自分がポンと乗り越えて周囲の心配事をみんな飲み込んでしまう、なんともおかあさんらしい発想だ。自分のことより周りの人のことを慮る、そしてなにせ当時七十才だったことを思えば、大した度胸であり、おかあさんという人の大きさ、優しさがここにも現れていると思う。それにひきかえ、僕ときたら、自分の関連でしかものを見ていなかった訳で、改めて己の未熟さを知った。しかし、移住の主たる理由がそうであっても、おかあさんから見れば、僕はいろいろと訳のわからない行動をとる、つきあいにくい相手ではなかっただろうか。そのことを聞いてみると、
「確かに純ちゃんはちょっと変わってるわよ。でもね、お兄ちゃんだって若い頃は随分変わってたのよ」
とおっしゃった。そういえば、昔、里香もそんなような話しをしていたなあ。僕から見ればとても良識的なお兄ちゃんだが、独身時代は里香の言葉によると「世を儚んだ一風変わった人」だったそうだ。しかし、ちょっと変わっている、ということは別の見方をすれば、貴重な価値観を持っている、とも言える。お兄ちゃんの現在を見てみるとそれがよくわかる。このことについてはまた説明の機会があると思う。その夜はまさに目から鱗が落ちたような気がして、久々にうれしい気分で休むことができた。

 翌日、見舞いにいくとまた体の向きが変わっていた。看護師さんに確かめてみるとやっぱりスタッフが動かしたそうで自分で動いたのではなかった。まだまだ道は遠いなあ、と思ったが体温の方は二十七度まで上がってきていた。腕の肌の色を見てみると、最初に見たときの青あざのような感じはなくなってきている。耳元への呼びかけに対して、うす目の奥の黒目の動きがよくなっている気がする。先生に聞いてみると
「確かによくなっています。反応の素早さと大きさが変わってきました。反応の回数も増えていますよ」
とおっしゃった。まだ本人の意識とは遠いものだが、確実にそこにはつながっているはずだ。微々たる進歩だが、あせってはいけない。そもそもこれは、時間をかけることで意識回復後の障害のリスクを下げていく治療なのだ。呼びかけを続けながら目の動きを追っていたら、新婚の頃、よく熟睡している里香のまぶたを本人に気付かれないようにそっと開けて遊んでいたことを思い出した。だいたいが寝ているときも目がうっすら、というよりかなり開いている方で、睡眠中というのは誰でもそうなのだが左右の目がバラバラな方向を向いているから面白い表情になっている。それを笑いをこらえながら見て楽しむ、という本人が知ったら憤慨するようないたずらなのだが、あるときちょっとやり過ぎて、僕のこらえ切れない笑いに気付いたのか、まぶたの違和感に気付いたのか、左右別々にゆっくり回っていた黒目が真ん中でピタッと向きが合った。「しまった」と思って手を離したが、遅かった。
「ああ!なにすんのよ〜!!」
と、瞬時に事態を把握したようで、えらい剣幕で怒られた。
「あなた、いつもこんなことしてたの!?」
と詰問され、
「いや。初めてです」
と嘘をついたが、全く意味はなかった。
「そんなはずないわ。かなり何回もやってきたね。今回はたまたまちょっとやりすぎたんでしょう!」
という。こいつ実はわかっていたのか?と一瞬思ったが、それならもっと早くに叱られているはずだ。僕の日頃の行動から読んでいるのだろう。恐ろしいカンである。こうなるとシラを切り通すのも、さらに事態を悪化させそうだったので、ひたすら謝る方針にした。もうやりません、という確約と、逆に僕が熟睡している間に何を仕返しされても一回は文句を言わない、ということで話しがついた。大丈夫である。僕が熟睡して里香が起きている、なんてことがそうそうある訳がない。実際、何か仕返しをされた記憶はない。そう思っているのが花かもしれないが。思い出してみると懐かしくもあり、笑える話なのだが、今は里香の目が焦点を合わせてくれる期待もまだまだ虚しい。ちょっと切ない気もしつつ、呼びかけを続けた。
 
 夜、バイトの帰り道で久しぶりに夜空を見上げたら、星がたくさん出ていた。すぐにオリオン座を見つけ、冬の第三角を確認した。塾講師の性(さが)でポルックス、カペラ、アルデバランと追っていき、それぞれの色や輝きを歩きながら観察した。気が付けば、もう十二月の中旬になっている。秋も終わりに差しかかり、もう冬なんだなあ。まだ里香の意識は戻らないけど、クリスマスには退院してうちに帰ってきて欲しいなと思った。そして年末やお正月、それに里香の誕生日の一月五日は家族三人で迎えたいなあ。だから里香よ。クリスマスにはうちに戻ってこいよ。きっと戻ってこいよ。クリスマスには・・・。そう思ったら涙が堰を切ったようにあふれた。ここ数日泣いていなかったが、その分なのか止めどなく涙が出た。まあ仕方ない。いいや。このまま上を向いて歩こう。涙はこぼれちゃってるが、下を向きたくはなかった。夜の空を見上げたまま、希望を持ったまま、上を向いて歩いていきたかった。泣いているので呼吸が乱れて吹きにくかったが、大好きな九ちゃんの歌を口笛で吹いて歩いた。

 数日後、いよいよ里香の体温も三十度にまでくるぞ、という日、おかあさんが見舞っている時に、おかあさんが握っていた手を里香が軽く握り返してきたそうだ。先生の判断では意識的なものとは言えず、反射的なものだそうだが、目の動きに続いて手も動き出したとすると、ステップを一段上がったと考えていいと言われた。翌日からは体をさすったりしながら、目覚めを促していく過程に入ることになった。とはいえ、まだ体温は平熱に遠い。あくまで徐々に少しずつという話しだった。一日のうち呼びかけをしたり、体をさすったりという時間はまだ限られる。大半は冬眠状態のままだ。それでも一歩一歩前へ進んでいる実感がある。いいぞ、里香。立てば歩めの親心という言葉があるが、そんな気持ちがよくわかる。その翌日、体温は三十一度。午前の見舞いのとき、呼びかけに対しての目の動きが連続的になってきた。僕もおかあさんと同じように手を握ってみた。反応はなかったが、手のぬくもりが戻ってきていた。これはうれしかった。ICUに初めて来た日はびっくりするほど冷たかった手が人間らしいぬくもりを感じさせるところまで戻ってきたのだ。人というものは手の感触でお互いを繋ぎ合っていくものだ。街を歩いていても、若いカップルやそれに限らず年配のご夫婦でも、仲のよい二人が手を繋いで歩いている姿をよく見かけるが、こちらまで幸せな気分になる。そういえば、僕と里香が付き合い始めるきっかけは、バーのカウンターでとなりに座って飲んでいるときに彼女が僕の手をにぎってきたことによる。僕は自分からそんなことはできない質で、あれがなかったらいつまでたっても恋人同士にはなれなかったと思う。
「あなた、わたしに感謝しなさい。救いの手を差し伸べてあげたんだからね。あれがなかったら、あなたいつまで経っても、ず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと彼女のできないモテない男のまんまだったわよ」
と、後々までよく言われた。未来永劫、モテないまんまと決めつけられるのもムカついたが、恩義はあるので黙って聞いてきた。その手であるが、僕の手は手のひらの部分は小さくないが指が短い。紅葉まんじゅうのような手である。それに対して里香の手はでかい。体全体がでかいがその比率から考えても大きな手だ。特に指が長い。その昔「風」というデュオがあった。かなり影響を受けたアーティストだが、その歌の中に「小さな手」というタイトルの曲があった。「君の小さな手は とてもすばらしい」恋人の可愛い手、妻になり、母になってその手で子供を育てていく、さらに母から子によく似た手は受け継がれていく、そんな歌詞だったと思うが、当時十九才でまだ女性と会話もできないくらいの奥手だった僕は、きっと女の子の手は小さくて可愛いんだろうな、と思ったものだった。それから七年のときを経て、ようやく自分にも初めて彼女ができたら、その手は僕より指が一節分も長い巨大な手(しかも握力は48キロ!)だった。何事も空想と現実には距離があるものだ。
 
 そこからさらに数日、おかあさんとの夕食後の報告会も日一日と情報が増えてきた中、見舞いにいくと看護師さんから、腕と足が動き、微妙に寝返りらしき動作があった、と聞いた。先生も目覚めのためのプログラムを加速していきます、と言われた。果たして脳の障害はどこにどんな風に残るのか。それとも元のまんまで生き返ることができるのか。先生の予想では、心肺停止の時間が40分を超えていたこと、現在までの症状の推移などを考えて、大きな障害は避けられた可能性が高いが、細かな問題はいくつか残るかもしれない、とのことだった。あくまで医学的に見ての予想の範囲であり、もちろん確約ではない。そして意識が戻ってもまだ無理は禁物で、一日のうち起きている時間はほんの少し、という日を意図的に続ける予定だと聞いた。目が覚めてもまだまだ先が長いということだ。しかし、それでもここまでやってきた。体温は三十三度となった。いよいよ里香がかえってくるのか!




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