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2016.06.13 Glory 8
 里香のリハビリメニューのひとつに「起き上がり」がある。文字通り、ベッドの上で起き上がることだが、一人で起き上がることはもちろんまだ出来ないが、初めのうちは、上半身を起こした状態を保つこともできなかった。看護師さんたちに支えられながら、本人も両手をついて体を起こした状態をほんの数分維持する練習から始めて、今では支え無しで結構長い時間の間起こしていられるようになってきた。起きる動作も徐々に助けが減り、一人で起きられるようになるイメージができてきた、という感じだ。元々体を鍛えまくる人で、なにが彼女をしてそうさせるのかよくわからないが、とにかくいつも鉄アレイ持ち上げや腹筋をやっていた。足も速く、運動能力はかなり高い方だ。そんな里香にして、ほぼゼロからのリハビリとなる訳で、ベッドに張りつけになっていた期間の筋力の衰えというのは、想像を超えるものがある。声を出す練習も少しずつやっているが、こちらの方はあまり進んでおらず、しかし性急に結果を求めるとストレスになるそうで、先生から
「まあ、声の方はあわてずにいきましょう」
と言われた。里香は古典の箏曲奏者であるが、同時にアイルランド好きが嵩じてアイリッシュ・トラッドの歌い手としても活動していた。地唄とアイリッシュ、どちらも歌は大変上手で、僕としてはこの能力を失わせたくない気持ちが強く、ついあせってしまうのかもしれない。しかしまあ、先生の指導にしたがって、地道にあせらず、少しずつやっていくしかないだろう。

 そんな日がしばらく続く中、しだいに状況が変化してきた。本人に記憶力が少しずつ戻ってきて、二、三日前にはできなかったこんなこと、あんなことが出来るようになっていく過程が自覚できるようになり、精神的にもだんだん強くなってきているのだ。そうなると、何事もやりだすと過激なくらいとことんやる
性格(そのかわりやらないときは全く何もやらない)は変わっていないようで、ベッドの中での寝返り運動や手足の強化運動などを習うと、スタッフの方が止めるまでやろうとするし、目を離すとしょっちゅう長い腕や足をぐるぐる回すしで、せまいベッドの上で大きな体を動かしまくるから、目立ってしょうがない。点滴以外に栄養を受けていないにも関わらず、どこからそのエネルギーが出てくるのか不思議なくらいだが、その姿を見る限り、もうICUより一般病棟に移った方が周囲の患者さんのためにもいいような気がする。ひと月程前は植物人間だったのが、今やICUの中で里香一人だけが積極的かつ元気そうなのだ。回復のスピードが加速しているといってよかった。起き上がりもついに完成まであともう少し、というある夜、なぜ夜に面会にいっていたのかよく覚えていないが、看護師さんたちが車いすを用意してくださった。先生から
「今日はここを出る予行演習をしましょう。もう車いすに乗れると思うので、お二人で院内を少しお散歩してきてください」
と言われた。説明によると、エレベーターを使って、一般病棟までいったらすぐに戻ってくるというほんの短いコースであるが、こんな許可がでるなんて思っていなかったのでびっくりした。どうやら里香は事前に聞かされていたようで、僕がICUに入ってきたときからうれしそうな表情をしていた。
「あ、あの、本当にいいんですか?」
と、おっかなびっくりの僕に先生は
「ええ。大丈夫ですよ。少しの間ですけど、ここの外の空気を吸ってきて下さい」
と笑顔で答えてくださった。
看護師さんふたりに助けられながら、ベッドから車いすに移り乗った里香は、本当にキラキラした表情で僕を見ている。そして声の出ないささやきで
「いこう!  いこう!」
と言っている。車いすの後ろにまわり、ハンドルを持ったら、心の中にあたたかいものが溢れてきた。ここで毎日動かない里香を見てきた。おかあさんと気持ちを支え合ってここまでやってきた。少しずつ回復していく里香の姿や、里香の他にも何人かいる患者さんを手厚く看護するスタッフの方達の使命感に満ちた仕事ぶりや、丁寧に診てきてくださった先生や、ここの緊迫した空気や・・・いろいろなものが一気に甦ってきて胸がいっぱいになった。ここまできたんだ。始めてここに来た日のあの冷たい状態から、ここまできたんだ。まだ車いすだけど、それでも動けるようになったんだ。ずっとベッドの上でその柵の中から出ずにいたのに、今、もうそこを出てICUを出ようとしている。この日がきたんだ。看護師さんに誘導されながら、ハンドルを押して出入り口の方に移動する中、涙がこぼれてしかたなかった。両手がふさがっているから、流れるままにせざるを得ない。泣いているのを見られるのが恥ずかしかったが、誰もが気付かないふりをして、あたたかく見守ってくれているようだった。部屋を出るとき、みんなの方を向くと全員の方が笑顔で見送ってくださっていた。車いすから小さく手を振る里香に、みんなで
「いってらっしゃ〜〜〜い」
と大きな声で送り出してくださった。ありがとう、みなさん。いってきます! 涙でくしゃくしゃになりながら頭を下げて、ICUを出た。その先の長い廊下をエレベーターまで進む。慣れていないからまっすぐ進むだけでもなんとなくハンドルを押す手がぎこちない。里香はこの廊下もエレベーターも通路もなにも知らない。どこもみな、彼女にとっては初めて見る場所だ。エレベーターに入って、後ろから里香の表情をのぞきこんだら、なにもかもに驚いているようだった。まるで小さな子供が初めて見る美しい光景に目を奪われているような、その純真な表情に心が洗われる気がした。里香のこんな表情を見るのは何年ぶりだろう。エレベーターを出て通路を通って一般病棟への渡り廊下に出た。ここの窓からは外の景色が見える。せっかくだから窓に近づいて外を見せてあげようとしたが、車いすの高さからでは街の夜景がちらっとしか見えない。首を長くして、しきりに下をのぞきこもうとする里香に
「あんまり無理しちゃだめだぞ」
とたしなめた。と、そのとき二人同時に気が付いた。夜空には月が出ていた。
「つき!」
と、ささやきながら指差した里香はうれしそうに僕の方を振り向いた。きれいな、本当にきれいな月だった。
「上弦の月と満月の間くらいやな。今の時間、この月が見えるのは窓が南向きだからなんや」
と、つい塾講師のクセで講釈すると、頷きながら素直に聞いていた。
「きれい」
「きれいやなあ」
月を見て、きれいだと思うこと自体、久方ぶりだ。都会の夜空にだって月は変わりなく、美しく輝いている。そんな当たり前のことに気が付かせてくれた。お月様、そして里香よ、ありがとう。そして、ふたりで一緒に何かをきれいだと思えたことに感謝した。月を見ていたのは、ほんの数十秒だったと思うが、この小さな小さな旅の目的は達成されたように思った。
あまり長く戻らないとICUで心配するかもしれない。渡り廊下を過ぎて一般病棟に入ったところで
「帰ろうか」
というと、うれしそうにこっくりと頷いた。まだ一般病棟は「向こうの世界」という感じがしていたのかもしれない。

 ICUにもどったとき、
「おかえりなさ〜〜い。里香さん、面白かった?」
と看護師さんの一人が聞いたら、
「おもしろかった〜。もっといきた〜い」
と、うれしそうにささやいた。助けをかりてベッドに戻った里香のすぐ近くで先生が
「このくらいのことなら、体力的にも全く問題ないですね。一般病棟への移行の手続きをしましょう。おそらくすぐに婦人科の方へ移っていただくことになると思います」
と言われた。本人の聞こえるところで言われたので、もうすぐにでも実行に移ることだろう。大きな病院なのでベッドの空きはあるだろう。うれしさ半分、寂しさ半分であるが、ここを出ていくことが、こちらの方々の願いでもあると思う。帰るとき、部屋の出口で、みなさんに向かって
「ありがとうございました!」
と大きな声で挨拶して退室した。今日はありがとう。そして今まで本当にありがとう。いっしょくたのあいさつだったが、いそがしい救急医療の中なので一番手短かに、しかし心からの気持ちであった。

 病院からの帰り道、気が付いたことがあった。車いすを押しているとき、手がふさがっているので、涙を隠せなかった。当たり前だが、車いすを押すということは両手がふさがる。自分の力を相手のために使ってもらう。そこには必ず人間らしい掛け値のない何かが介在するのだ。実はお兄ちゃんはずっと奥さんのアデラの車いすを押している。アデラは元からの障害を持っているのだ。外国人であったり、障害者であったり、そういう壁を最初から全く気にせず、彼女に対する愛と尊敬から結婚をし、ずっと支え合いながらくらしている。普通の男なら気にしてしまうことをはなから気にしない、一風変わった人であったお兄ちゃんの少数派的価値観は、アデラと出会ったことで幸福な方向に花開いたのだと思う。そんなお二人に心からの尊敬を込めて、お伝えしたいと思った。僕も今日、気が付きました。車いすって、押していると愛情が湧いてくるんですね。人間ってそういうものなんですね。お兄ちゃんという身近な存在がありながら、ようやく今頃気が付いた自分を恥じるとともに、気付かせてくれた里香に感謝した。
 



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