2016.09.12   Glory 10
 食事による栄養摂取が始まってから、里香の回復はさらに加速したようだ。何日かおかゆが続いた後、普通のご飯になり、食品の制限もほぼなくなった。おやつとして「ゆかり」を食べても叱られないようになったのだが、そうなると人間不思議なもので、ゆかりに対する執着はなくなった。別に隠れて食べるスリルを楽しんでいたのではなく、単に塩分が欲しかったのだと思うが、それが満たされてきたということだろう。
 さて、回復の過程で遅れていた「声」であるが、食事と連動するようにだんだん出るようになってきた。かすれ声ではあるが、話が普通に聞き取れるくらいの声量が戻ってきた。まだ声が途中で途切れたり、一部の発声ができなかったりはするが、本人の言いたいことは声で伝わるようになった。以前はか細いささやきでどこかかわいそうな感じであったが、だんだん本来の太々しさが戻ってきた。一部の発声とは、僕の聴く限り、ラ行のことで、声帯の問題ではなく、舌の使い方で困難が生じているようだ。ラ行の子音Rが微妙でどうもア行みたいになってしまう。なんだかちっちゃい子供みたいなしゃべり方で、可愛くもあるが、いい大人が幼児言葉を使っているようで、しかも言っている内容や態度が太々しいから違和感がある。体がでかいので余計にそう感じるのかもしれない。これまで声が出ず、ささやきのみだったときは気にならなかったが、声が出るようになったらそれが目立つようになってきた。仲良しになった看護師さんの一人、桜井さんとよくおしゃべりしているが、そのときもラ行だけは相変わらずだ。
 おやつ類を食べてもいいことになっているので、何がいいか聞いたところ
「ガイガイくん」
という。
「なんじゃそれ?」
と聞き返すと
「ガイガイくんよ、ガイガイくん。しアないの?」
と訝しげな表情で言う。桜井さんの助け舟が出て
「里香さん、それガリガリ君でしょ。アイスキャンディーの。みかん味とかソーダ味とかいろいろあるのよね」
「そう。ガイガイくん。かってきて」
お菓子にほとんど興味がない僕は、うかつにもガリガリ君の存在を知らなかった。お笑いコンビ「ダウンタウン」の「ガキの使いやあらへんで」のオープニング曲がこれに基づいたものだということもこのとき初めて知った。
「じゃ、何味がいいんだ?」
「ぜんぶ」
「だめよ里香さん。一日ひとつずつにしましょうね。今日は何味にする?」
「ぜんぶかってきて、エいぞうこにいエウ」
「バカ。病院の冷蔵庫は私物じゃないぞ。うちじゃないんだから、ひとつに決めなさい」
こんなやりとりの末、ソーダ味を買ってくることになった。ゆかりの次は冷たいアイス。どうも刺激というかインパクトを求めているようだ。わかるような気はする。今のところ、安価なもので済んでいるのでそういう意味では平和だが、エスカレートして、四川風麻婆が食べたいとか、アラビアータソースのパスタがいいとか言い出さないか心配になってきた。そうなるとB級から一気に高級グルメ指向になるのが里香だ。そうならないことを祈る。  

 そうこうするうちに、年末も押し迫り、クリスマスとなり、大晦日を迎え、自動的にお正月となった。年末年始の一般行事も、今年の我が家は里香の治療中心に動いているので、ほとんど実感がないまま通り過ぎていった。おにいちゃん夫妻が贈ってくれたクリスマスカードとマリアさまのお守りだけがクリスマスの雰囲気を感じさせてくれたが、それ以外は実に淡々としたものだ。僕自身は、あまり世間が騒がしいのは苦手なので、それはそれでどうでもよかった。それでも毎年、新年を迎えるにあたっては「一年の抱負」なるものを考える習慣はある。
今年は 「舞台の仕事を充実させる」 としてみた。このところ、音楽の活動が自分の練習以外は停止に近い状態になっていることを自分なりに懸念してのことだった。元日の夜明け前、近所の神社に初詣にいき、お参りした際、里香の回復をお願いした後、自分の抱負としてこのことを心の中で言ってみた。

 元日から病室は普段通り稼働している。いつものように午前中に見舞いに行ったら、お正月らしく晴々とした素晴らしい空模様だった。病室の外のおどり場にいくと西側の方向がパノラマのように広々と見える。ここは6階なのだ。お正月の澄み渡った空に見事な富士山が見える。これはいい。里香の家庭は愛国心の強い一家で、特に里香は日本の風物や伝統文化を愛し、かつ誇りに思っている。病室のテレビくらいしかお正月気分を味わえないだろうから、この富士山を見せてやりたいと思った。看護師さんに言って車いすを用意してもらい、
「いいものみせてやろうか?」
と里香に言ったら
「なになに?そとにいってもいいの?」
と目を輝かせた。
「いやいや外はまだだめやな。でもいいもんやぞ~」
「エエ~~? ♪ はっやく・・ ♪ はっやく・・」
と体で四拍子を刻み出した。 ベッドからおどり場までは目と鼻の先だ。富士山が見える位置まで気付かれないように
「いいって言うまで目をつぶって」
と言ったら、目を閉じてその上から手で塞いだ。素直になったもんだ。以前ならこっそり目を開けて覗いていただろう。おどり場の前まで行って
「いいぞ。目を開けて」
と言ったら、目を開けて、はじけそうな笑顔になって
「ワア~~~~~! ふじさ~~~~~~ン! ワア~~~~~!」
と富士山に向かって両手を振って大きな声をあげた。富士山じゃなくて富士さん、と呼びかけたように聞こえた。予想以上の反応にびっくりしたが、こんなによろこんでくれたら、こちらもうれしい。しばらく二人で富士山の美しい姿を鑑賞した。病室で迎えた地味なお正月であったが、好天で空気が澄んでいたお蔭でテンションが上がった。その夕方、おかあさんが来てからもしきりに富士山の話をしていたそうだ。おかあさんもまた大の富士山好きで、話にのってくれたようで
「ふじさんはせかいいちのやまだわよ」
だの
「やまはふじ。おんなはわたし」
だのとはしゃいでいたそうだ。  

 それから4日後、里香は四十三才の誕生日を迎えた。こんな時期の誕生日なので子供の頃から、
「クリスマスプレゼントもお年玉も誕生日のお祝いもいっしょくたにされてきたわよ」
とぼやいていた。そう言えばクリスマスも誕生日もプレゼントはなんにも用意していなかった。忘れていた。 当日になって、しかも本人に何か欲しいか?と聞いたら
「いい。あなたがまいにちきてくエたア、そエでいい」
という。うかつにも涙がこぼれそうになったが、こらえて何も言わずに頭をなでてやった。いい子になったもんである。
 その夜、塾の冬期講習中だったが、たまたま夕方から空きになったので病室にいったら、桜井さんが車いすを持ってきてくれた。
「せっかくのお誕生日だから純さんとデートしてきたら」
と言って院内の散歩を用意してくれたのだ。どこでも自由に行けるはずもない。ちょろちょろと移動したらそれでおしまいだが、それでも里香はうれしそうだ。
「アイシーユーいってもいいですか?」
と里香が桜井さんにきいた。いいことに気が付いたなあ。僕はこういうことに疎く、人付き合いの中で失礼をいろいろしてきたんだろうな、と思う。お世話になった人のことを忘れてちゃいかん。反省を込めて、また声が出るようになった里香を見ていただきたくてICU行きを僕からもお願いしたら
「ああ。忙しいところだけど、ちょっとならいいと思いますよ。内線入れときますね」
と言ってくれた。
「いってきま~~~す!」
病室を出てエレベーターを使って3階へ。
「あ、おぼえてウよ。ここおぼえてウよ」
興奮気味の里香の声を聞きながら、ふたりで月を見たあの渡り廊下を逆に渡ってICUへ。だんだん早足になる。もうひとつエレベーターを使って1階のICUまであっという間に着いた。比較的のんびりした雰囲気の婦人科と違ってここは救急医療の最前線だ。緊張感が湧いてくる。
「みなさん忙しいからちょっとだけやぞ」
「わかってウ。みんなおぼえてウかなあ?」
「それは大丈夫や。思い切り目立ってたから忘れる人なんておらんやろ」
「そうかなあ」
緊張しながら、大きなドアをノックしようとしたとき、ドアが動いた! 中から
「開けますよ~。いいですか~」
という声が聞こえた。
「はい!」
と応えると、ドアが開いて、眩しい光の中からスタッフのみなさんがドッと現れた。
「ワア~里香さん!元気になってる~~!」
「里香さん久しぶり~~!」
と歓声があがった。何人もの方が集まってくださって里香をとりかこんだ。みんな笑顔だ。うれしい再会である。
「お世話になりまして本当にありがとうございました!」
「里香さん、今日お誕生日なんですって? おめでとう!」
「婦人科から聞きましたよ。声出るようになったんですよね」
「声聞かせて!声聞かせて!」
そんなやりとりの中、
「じゃあ、本人から自分の声でみなさんにメッセージを」
というと、みんな耳を攲てて里香に注目した。里香の肩をポンとたたくと
「みなさん。あイがとうございました!」
と本人としては精一杯の声で言った。
「オッシャ~~~~!」
「ヤッタア~~~!」
「すごい、すごい!」
またしても歓声があがり、同時に拍手が湧き上がった。こんなによろこんでもらえるなんて!みなさんの気持ちがうれしくて胸が一杯になった。里香もみなさんも笑顔でキラキラ輝いていた。もっともっと一緒にいたかったが、そうもいかない。みなさんの後ろには意識もうつろなお年寄りの姿が見える。ここでは時間との戦いが続いているのだ。
「また、来て下さいね!」
「この調子でもっともっと元気にね!」
そんな声をいただいて、名残惜しい気持ちを胸にふたりで心からのお辞儀をして、婦人科に戻ることにした。 戻る途中、エレベーターの中で言ってみた。
「よかったな。みんなと会えて」
「うん!」
かいま見た里香の横顔は本当に晴れやかだった。

 うちに帰ってから気が付いた。スタッフの方々のあの笑顔。拍手と歓声。眩いばかりのあの光。何かに似てるな、と思った。きっと神様が見せてくれたんだ。「おまえが誓った約束とはこういうことか?」と、そう問われたんだと思った。



 
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