2016.10.14 Glory 11
 ベッドに張り付いていた頃と違って、だんだん車いすを使った散歩の機会も増えてきており、先生から、そろそろ次のステップに向けて、院内のリハビリセンターに通って歩行その他の訓練に入るように言われた。元々体を鍛えることに異様に執着する質の上、普段することがない里香はこれを楽しみに待っていたようだ。
「どんなことすウのかなあ」
「まあ、無理のないところから始めてだんだんにやっていくやろうから、心配はいらんやろ」
「しんぱいなんかしてないよ。がっつイやってやウわ。どんとこいだわよ」
なんだか目がギラギラしてきたようで、また何かやらかさないかと、ちょっと心配になってきた。今の状態としては、ベッドで起き上がったり寝転んだりはすでに自分でできるが、まだ自力で立ったり、立った状態を維持したりはできていない。下半身がまだ弱いということだろう。ずっとベッドに寝ていた上に、食事も以前の元気な頃の量から比べれば、半分以下ではないかと思うし、まあ筋力は随分落ちているだろう。
 車いすで本人を連れてリハビリセンターまで予定を聞きにいく途中、気が付いたら里香が歌を歌っていた。小さな声だが
「 ♪しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん し~と~ぴっちゃん♪ 」
と歌っている。考えて見れば、メロディーを付けて何か歌うのは、これまでなかったように思う。歌も復帰の兆しが見られた訳で大いに喜ばしいことなのだが、僕はどうも悲しげな短調の歌が苦手で、特にこの子連れ狼の歌は好きじゃなかった。これに対して里香は短調の曲が好きだ。多分、車いすを子連れ狼の乳母車になぞらえてのことだろうが、
「それ、陰気で嫌いやねん。明るいのにかえてくれへんか?」
というと、一瞬、ムっとしたような顔をして
「じゃあ、あなたの好きなのうたって上げウわよ。聴いてなさいよ。 ♪ひとつや~ま越しゃホ~ンダアッタホ~イホ~イ もひとつ越してもホ~ンダアッタホ~イホイ♪」
とホンダラ行進曲を歌い出した。それも僕を困らせようとして、わざと大きな声で歌っている。もちろん僕はクレージーキャッツの大ファンで自分でもよく歌ってはいるが、院内の、人がたくさん行き交う中で、ただでさえ目立つでかい女がこんなの歌ってたら、注目をあびてしまう。
「やめろよ!おまえみたいなでかい女がそんなの歌ってたらみんながこっち見ちゃうだろ!」
「でかいおんなでわウかったわね。いいじゃないよ。みなさんに見てもアえば。なによ。 そっエ! ♪大きいことはいいことだ~ 大きいことはいいことだ~♪」
と直純先生の真似をして大きく腕を振りながら歌い出した。やめろ、といってやめる人じゃない。恥ずかしいので急いで車いすを押して早足でリハビリセンターにいったら、担当責任者の若い男性の先生がいきなり出てきて、
「元気な奥さまですね~!」
と、びっくりした表情をされた。さすがに里香も恥ずかしくなったようでおとなしくなったが、いきなり目立ちまくりのリハビリセンターデビューであった。
 担当の先生は、恥ずかしがっている里香に気を使ってか、さっきまでのことはなかったかのように、気真面目に振る舞ってくださり、これからのことをいろいろ丁寧に説明をされた。お蔭で里香は、体を鍛える、という彼女にとってモチベーションの上がる話に食い入るように聞いていた。先生は、説明を聞いている時の里香の表情から察したようで
「奥様、随分やる気になってますね~。意欲的で素晴らしい! ただし、何事も最初はゆっくり、あわてずに、基本をしっかりやっていきましょう」
と言われた。やや入れ籠み過ぎの里香にはよいアドバイスをいただいた訳で、信頼できる先生だと感じた。
 明日から毎朝、10時に来て、決められたメニューをこなしてお昼前に婦人科に戻る、というルーティーンで進めていくことになった。先生からのすすめで、Rの発音についても練習していくことになった。発音なら、センターだけでなく、病室にいる時間を使ってもできる。ラリルレロの発声練習だけでなく、「リリー・マルレーン」などのRを多く含む言葉も練習の課題になる。やっていけば改善されるのにさして時間はかからないような気がした。ここ数日も少しずつながら、よくなっている感じはあるのだった。

 翌朝、食事の後くらいの時間にいったら、里香はすでに車いすに乗って待っていた。
「早く10時になアないかな〜」
「そんなにリハビリ行きたいか?」
「うん」
まあ、やることがなくて暇を持て余しているようなもんだし、そこへ好きな体を鍛える話がやってきたのだから逸る気持ちはよくわかる。ちょっと早めにいって、見学させてもらうことにした。今回は歌わずに道中おとなしくしていた。実際に他の方達のトレーニングを見せていただくと予想よりも結構シビアにやっているようで、自信満々だった里香も少し緊張してきたようすだった。何事も自信過剰はよくない。他の方々の真剣な表情を見れたことは、スタートに際して心理的によい影響をいただいたと思った。
 そして数十分の見学の後、いよいよ里香の番がやってきた。担当の先生から最初に出された課題はお箸でものをつまんで別の箱に入れる、というものだった。すでに毎日お箸を使って食べているので、これは楽勝だろうと思ったが、やってみると意外にうまくいかない。本物の野菜や果物と違って、プラスチックの食材はツルツルしていて硬いのだ。イライラしてきた里香は冗談のつもりもあって、
「あ〜もう、こうしてやウ!」
と、手でつまんで全部箱に入れた。
「バカ。もう一度、全部やりなおしだ」
といって中身を全て元に戻したら、見ていた先生が笑いながら
「ご主人、いい療法士になれますよ」
と言われた。しばらくそれをやって、次にトライしたのが、下半身の筋力と平衡感覚を鍛える練習で、直径が1メートルほどもある大きなゴムまりの上に座る、というものだった。面白そうだが、やってみると
「ギャ〜〜〜! いたい! いたいよ、これ。ギャ〜〜〜〜!」
足のどこかが痛いらしいが、それがどこなのかは本人もよくわからないようだ。今まで使っていなかったどこかの関節か筋肉があるのだろう。グネグネと変形して安定しないゴムまりに座るには自分の下半身と上体の向きを駆使して調整する必要があり、しかも自分の体重はゴムまりが支えてくれている。これはよく考えられたトレーニングだと思った。さすがプロの用意したメニューだ。さらにこれだけギャーギャー騒いでいると声のリハビリにもなっている。あんまりうるさいのでまたしても目立ちまくっているが、痛いのなんのと騒いでいるわりに練習を止めようとはしない。痛いながらも面白がっているのかもしれない。この後、時間をかけてストレッチをやって、かるくマッサージを受け、初日のメニューは終了した。気が付いてみると2時間を経過しており、あっという間で時間を短く感じた。婦人科に戻る途中、車いすの後から聞いてみた。
「どうや?きつかったか?」
「いたかったけどおもしオかった。またあしたもはやくいきたい」
「よかったやん。あせらずに頑張ろうな」
「うん」
 単調になりがちな院内生活で、ほぼ初めてやり甲斐のあるイベントができた訳で、里香本人も僕も気持ちに張りができた。体を使っていれば睡眠や食生活にも当然いい影響があるだろう。好循環を期待できる。そして何をするにも短期、中期の目標は持っていた方がいい。病室に戻ってから、二人で当面の目標を話し合った。先生の指示より先走らないこと。一人で立って歩けるようになるまで頑張ること。この二点を決めた。

 次の日、病室にいってみると、いつもお世話になっている三人の看護師さんが揃って、里香を車いすからベッドに戻していた。三人とは仲良しの桜井さん、いつも笑顔でやさしい安田さん、里香くらい背が高くクールで美人の谷さんである。リハビリが始まったタイミングで身長や体重を測定したのだそうだ。身長は172・5センチ、体重は48・2キロだそうで、寝てばかりいるせいか微妙に身長が伸びている。体重はこんなもんだろうと僕は思ったが、三人によるとこの身長でこの体重は軽すぎるという。しかし、元ボクシング世界チャンピオンの井岡弘樹氏がストロー級(現ミニマム級)時代、身長172センチで階級のリミットが47・625キロである。鍛えまくったプロアスリートと入院中の女子を比較するのも変だが、逆にストロー級のリミットを下回ってもおかしくないと思った僕の感覚はやはりズレているのだろうか。里香の普段の体重はたしか56キロから58キロだったと思う。元々引き締まった体型の里香が10キロくらい落ちたのだから、考えてみれば、やはりやせ過ぎなのかもしれない。それでも48キロあるのはおとうさん譲りの骨太なフレームのせいといっていいだろう。本人はと言えば、大きく体重が落ちたことを面白がっている節があり、「こんなもんだろう」という僕の意見よりも「やせ過ぎ」とか「ありえない」といってくれる三人の声を喜んでいる。こんなことで意地を張ってもしょうがないので、ここは里香の思うように「すごいやせ方だ」ということに訂正した。すごいやせ方で、すごく頑張って、すごく寝て、すごく食べて、すごくよくなっていく、すごい奴だ。それでいい。
 リハビリセンターに連れて行くと、昨日のお箸の練習が少し短縮されて、その代わりに早くも立ち歩きのリハビリが加わった。両脇を支える水平バーに掴まりながら少しずつ歩くのである。こうなると本人の表情が今までとはまるで違う。頭の中では映画ロッキーのテーマ「Gonna Fly Now」が鳴っているのだろう。背中から気の柱が立っているようだ。初回の今日はほんの少しで終わったが、「もっとやらせてほしい!」と言わんばかりの目つきだ。でもそこは昨日、約束した通り、先生の計画にしたがってもらわないと困る。里香もそれはわかっており、終了の指示は素直にきいた。しかし、僕の目にも急速に坂道を駆け上がっていく感覚は十分に見てとれた。あせらず、あせらず、着実に。だけどがんばれ里香! 普通の女じゃないことをみんなに見せつけてやるんだ!




スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://goinghome153.blog76.fc2.com/tb.php/249-e2b6f04e