山内さんが条件として提示したのは、こういうことだった。彼の経験から、婦人科の入院病棟で誰かのカットやメイクをしたら、わたしも、わたしも、となってみんなが押し寄せてきて、実際、彼の目から見て、困ってるんだろうなあと思える患者さんばかりで、断りにくくなってしまうのだそうだ。やはりそこは女性が集まっているので切実な願いなのかもしれない。そこで、今回は初めから里香さんオンリーで、他の患者さんの臨時オーダーはできません、ということを確定しておいて欲しい、とのことだった。翌日、ナースステイションで、まず、里香のカットを病院内でしていいのかどうか、そして、他の患者さんはできないということをどうやって伝えたらいいのかを聞いてみた。随分わがままな話だと思うが、いつもの看護師さん三人は意外にあっさりと、
「それなら、ここの奥でやればいいんじゃない?」
「そうねえ。ここでいいんじゃない」
とナースステイションの奥のスペースを使わせてくれることを提案してくれた。確かに、病室からはカットしていることはわからないし、だったら、わざわざ断りの方法を考える必要もなかった。長い間、入院しているので、なんだか牢名主のように、特別扱いになっている雰囲気だ。そういえば、ベッドの向きが僕のマレーシア行きの前と変わっていた。これも里香が自分の好きな向きに変えてもらうように頼んだらしい。元々、交渉能力は高い人で、自他ともに認めるお人好しの僕なんかから見ると、人使いが荒いというか、女王様みたいなところがあった。練馬の借家から、今の実家に移る時もこんなことがあった。台所の換気扇まわりのクリーニングを不動産屋さんがプロにオーダーするからその料金をいくばくか負担して欲しいといってきた。それを里香は自分でやるといい出した。この家のトイレの床を自分一人でフローリングにした実績のある里香だけに、また自力でやるのかと思ったが、不動産屋さんは
「いえいえ。素人の方がやったんじゃ、どんなにきれいにしたってわれわれから見ればダメなんですよ」
という。そこで里香は一度自分でやってみて、結果を見て判断して欲しい、と掛け合って来た。そして、自分でやるのではなく、当時まだ普及していなかった蒸気を噴射して油汚れを画期的に落とすというクリーナーのセールスマンを我が家に連れて来て、1000円でお試しクリーニングという企画を利用して、換気扇周りを完璧にきれいにさせた。本当はコンロ周りのみの企画なのに、セールスマンに口八丁言って換気扇までやらせたのである。僕もそれを見ていたが、別に色仕掛けでもなんでもなく、うまく口車に乗せて
「わかりました、わかりました。やります、やりますよ。はいはい」
と言わせてしまう技には感心するばかりであった。しかもやらせておいて商品を買う気なんて、はなからさらさらないのだ。そして次の日、検分に来た不動産屋さんから
「うん。確かにこれはきれいだわ。わかりました。クリーニング代はご負担無しで」
という言質を引き出した。僕の方をどや顔で見た里香は、それだけに停まらず、不動産屋さんの負担分からいくらかを引き出そうと交渉し始めた。これには僕が遠慮してストップをかけたが、不動産屋さんが引き上げてから
「あなた。バカね」
と斜め上から侮蔑したような目で僕を見ながら言った。
「せめてバカ正直といってくれ」
「まあ、いいわ。でも私に感謝しなさい。少しでも出費を抑えたんだから」
「はい。感謝します」
こんな調子で、僕をびっくりさせた別の一件もある。長年つとめたイギリスの証券会社のバイトを辞める時、退職金を会社との交渉で引き出したのである。僕の感覚では単なるバイトに退職金なんて聞いたことがないが、それだけ職場で役に立っていたのか、得意の口八丁が功を奏したのか、なんと僕の年収に匹敵する額を出させたのには驚いた。例の成田~ロンドンの往復ペアチケットをクイズ大会でゲットしたあの会社だが、随分と気前がいいもんである。話は前後するが、しかもこのチケット、ヴァージン・エアラインのアッパークラスだった。他の航空会社のファーストクラスはおろかビジネスクラスだって僕らには縁がないと思っていたのに、世間で評判のヴァージンのアッパーである。行きの機内では、僕らのすぐ前の席にCAやパーツァーがいちいちひざまづいて挨拶する人がいて、一体どんな貴人かと思ってトイレに行くときに会釈をしながら見てみたら、立派なカイザー髭を蓄えた、きっと貴族階級の人なんだろうなとわかるジェントルマンだった。そんな席にバックパッカーの日本人夫婦が乗ってきたのである。僕なんて思いっきり地に足が付かない心持ちだったが、さすが里香は堂々としていて、ゴージャスな喫煙コーナーで悠々とタバコを吸ったり、自分の座席シートをゆったり寝かせて高級ワインをくゆらせたり、上流階級ごっこを存分に楽しんでいた。
 ついでに家の営繕関係での交渉上手について、もう一つ言っておくと、今の実家のお風呂の床下が修理の必要があるんじゃないか検査しますよ、とある建築屋さんが訪問セールスで言ってきた時に、本当に必要があるのかないのか、自分の目でも確かめたい、と里香が言い出した。床下に入るのは大変だから、写真を撮ってきます、という建築屋さんに
「今すぐ着替えますから」
といって、ジャージ姿にタオルで髪を被った奥田民生みたいな格好で現れ、
「一緒に連れてってくださ~い」
と彼の後ろに早々とくっついた。
「いいんですか、本当に。じゃ、いきますよ」
と驚き半分、笑い顔半分の彼と一緒に床下に潜っていった。素人同伴なので声を掛け合いながら、土にまみれつつ匍匐前進でお風呂の下まで行って、あれこれ説明を受けて20分ほどで戻ってきた。蜘蛛の巣やら泥やらを払いながら
「あれは早く修理しなきゃ危ないわ。こちらにお願いしましょう」
といった。建築屋さんも
「ありがとうございます。いや~床下までついて来られた奥様は初めてです」
と、なんだかうれしそうだった。
そこからの交渉を見ていたが、建築屋さんが一緒についてきた里香に感心してしまって、彼女のペースに嵌っている感じがありありとわかった。実際に見ているので、必要という程ではないけど安心のためにここも、という類いの彼にとってはくっつけたいオプションも一切なし。逆に工賃の値下げサービスをうんと言わされつつも、参ったなあという笑顔だった彼の表情が印象に残った。

 さて、ナースステイションから許可が出たので、数日後、山内さんが道具箱を持って病院にやってきた。彼はお店付きの美容師ではなく、今やモデルさんのスタジオ撮影やファッションショーの現場で腕を振るうメイクアップ・アーティストなので、このスタイルの方が様になっている。実はここ一年ほど、里香が何かにカッとなって、彼とは会わない日が続き、そのまま倒れたので今日が久しぶりの再会であったが、里香はそんなことは忘れているようだった。彼の方も全く何も気にせずにいつも通りのクールな対応をしてくれた。大きな鏡があるわけでもなく、本来、髪を切るスペースでは全くない場所だったが、さすがはプロである。どれくらい切りたいのか大体のイメージを聞いて、あっという間に仕上げてしまった。引き上げようとする彼と廊下を歩きながら少し話したところ、
「メイクまではできないけど、カットだけでもまあまあいいでしょ。今日は僕からのお見舞いだということで、お金はいらないよ」
といってくれた。
「ありがとう。お言葉に甘えるよ。また退院したら、通うから俺共々、よろしくね」
そして別れしなに彼はこう言った。
「里香さん、なんかつきものが落ちたみたいな感じだな。内面的によくなったみたい。痩せたのなんの関係なく、今までで一番きれいだよ」
「本人に言っとくよ。きっとよろこぶ」
「じゃ」
彼はお世辞なんて言わない人だ。その彼の意見だけに里香もうれしいだろう。ナースステイションに戻ったら、里香が椅子に座ったまま、手鏡で自分をいろんな角度から見ていた。何も言わず、ただ、少し笑みを携えて鏡の自分を見ていた。山内さんの言った通り、すごくきれいだった。ようやく僕の方を見て黙って微笑みかけた。何も言わないが「どう?」と聞いている。山内さんと同じ台詞で
「今までで一番きれいだよ」
といったら、比喩でなく本当に里香の笑顔からキラっと光がしずくのように輝きこぼれた。


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