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 怒濤の春期講習もいよいよ大詰めとなった。この間、南出と春生の理科の補習を偶数日の朝の授業前に、そして奇数日の同じ時間帯に充の算数を補習してきた。これは俺のボランティアとしてやった。朝早くにやるのはいささかきついが、夜、授業後にやると本人達の疲れや遅くなった場合のセキュリティーなど問題も考えられるので、俺も朝はギリギリの時間まで寝ていたいところだが、ちょっとばかり頑張ってきた。その成果なのかどうか、微妙だが、理科の春期最終回で、ある発問をして何気なく南出に当てたら、自信なさそうに小声で答えた。

「ああ、それが正解だ」

と言ったら、大袈裟に目をくるくる回して両手でガッツポーズを取りながらよろこんだ。

「やった! やった~~! 初めて答え合ってた!!」

という。そうだったかな。全く意識していなかったが、こいつ今までずっと当てられても間違えてきたのか。塾に来てもう一年以上経つのに。それにしても派手なよろこびようだ。やることがいちいち面白いひょうきんなやつだ。まあ、なんにしても自信につながればよし。あとはテストで成果をだせるかどうかだが。


 講習最終日の最後の授業は、彼らではなく、中2の数学だったが、これを終わって講師室で自分の席に着いたら疲れが一気にドッと出た。終わったぞ、という達成感もあるが、それより心身の疲労感が上回っていた。それでもしばらくボ~ッといすに座っていたら、なんとかようやく人心地がついてきた。さあ、あすの朝はゆっくりできるし、今夜は気兼ねなく飲みにいけるぞ、と思ったら、連絡ボードに「春期講習の打ち上げ」について書いてある。それはまあ、いいのだが、幹事が三溜事務主任になっている。俺と同じく、授業から戻ってくたくたになっている菅生君に言うと

「そうなんですよね。今夜はちょっと自由にはできないと諦めましょう」

と浮かぬ顔で答えた。まあ、暗くなるほどの事態ではないが。


 俺たちだけでなく、他の講師陣や事務スタッフも春期講習は大忙しだった。だから打ち上げの飲み会はそのご褒美として楽しみなはずなんだが、うちの校舎の場合、もうひと頑張りのご奉仕的な意味合いの生じる場合がある。一次会は少し大きめの部屋を借りてほぼ全員の参加で始まった。皮切りに司馬校長の乾杯の音頭があったが、彼も時間講師出身のせいかこういうときは、長話せず、パパッと済ませてくれるところがいい。現場の人間の気持ちをわかっていらっしゃる。それ以外は特に何か儀式めいたものはなく、みなそれぞれに酒を酌み交わし、楽しく語り合った。そんな中、俺は三溜主任を注視していた。それは彼女が美人だからではない。となりの菅生君に聞いてみた。

「どう思う?」

「う~ん。わりとセーブしながら飲んでますね。こりゃ避けられないと覚悟した方がいいかもですよ」

彼女はお酒はなかなかいける口だ。ワイン好きでかなりそちらの知識も深く、飲んで浮き世のうさをはらすような飲み方では全くなく、味わい派の酒好きといえる。だからただ飲んでる分にはなんら問題はない。問題は2次会以降なのだ。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。そうこうしているうちに1次会はお開きとなり、三溜主任が2次会に参加する人数を確認し始めた。

「2次会いかれますよね。あくまで自由参加ですから、ご都合の悪い方は結構ですよ。でも行ける人はできるだけ参加の方向で」

そんなの都合のいい悪いじゃなくて、好みや気分で判断させてもらいたい。あの高圧的とも言える固い表情で「自由参加」と言われても断るのには少しばかり勇気がいる。結局、かなりの人数が参加となり、その団体旅行のような一団を率いて彼女は自分の牙城へと向かうのであった。


 カラオケボックスのその部屋は、ミラーボールが付いている結構大きなものだった。

「は~い。みなさ~ん!2次会の始まりで~~~す! 盛り上がっていきましょう!!」

と、三溜主任は最初からマイクを持っている。こりゃ腹を決めてご奉仕に勤しむより他なさそうだ。

「みなさん。曲は順番にみんな平等にいきわたるように入れてくださいね。まず私。それからあなた。次は私。その次があなた・・・」

始まったよ。なんのことはない。自分が歌う合間に他の人が順番に歌うのだ。

「歌うのがイヤな人はいいんですよ。私がそのかわりに入れますから」

半分以上を自分が独占しておいて、何が平等なのか聞いてみたいが、どうやら自分の歌はみんなが楽しみにしていると決めてかかっているようでカウントしないようだ。たしかに彼女は歌が上手なので、俺たちも好きな曲を歌ってくれている分には楽しめる。しかし1曲や2曲ならまだいいが、10を遥かに超えるとなると、さすがにプロのリサイタルじゃないんだから飽きてもくるというものだ。いくつか曲が進行して行く中、俺が菅生君に話しかけたとたん、三溜主任の怒りの声が飛んできた! しかもマイクで拡声された爆音で、エコーさえかかった声で。

「ちょっと!丸木戸先生!!何話してるんですか。いいですか。私は、今、他でもありません。『聖子ちゃん』の曲を歌ってます。ちゃんと聞いててください! あ、もう一度、アタマからお願いします」

「す、すみません・・・」

バラードのときは静かかつ熱心に聞き入って、サビではみんな一緒に歌い、ノリのいい曲では全員が手拍子を打ち、大きな声で間の手を入れる。常に主役は自分でなければ許さない。はいはい。あなたはいつも校舎の運営に大きく貢献なさってます。俺なんかお世話になりっぱなしです。だから年に数回のカラオケぐらい我慢して盛り上げますよ。あなたのために。しかしまあ、よくもここまで公然と暴君になりきれるもんだ、と感心してしまう。今夜は『松田聖子』と『カーペンターズ』ばかり歌っている。みんなが知ってる人気のある曲を、ということなんだろうけど、その実、自分の好みなんじゃないのか。まあ俺も好きなので、それはいいのだが、自分のファンであるかのようにこちらの態度を強制されるのがイヤなのだ。春期講習のきつい労働の果てにこんなご奉仕が待っていたとは。疲れ果てた今となってはこの場を逃れる方法を考える余力もなく、ただ、自分の神経のスイッチを切って、おとなしく濁流にのまれていくことにした。


 結局、2次会のカラオケ地獄の後、このまま帰宅したら自分がかわいそう過ぎると思い、菅生君と朝まで飲んでしまった。彼も同じ思いなんだとは思うが、それにしてもいつもとことん付き合ってくれる本当に優しい男だ。朝、自宅に戻ってそのまま着替えもせず、ゴロ寝して、気が付いたら、もうそろそろ出かけないと授業に間に合わない時刻になっていた。急いでシャワーを浴びて、着替えて速攻で校舎へと向かった。途中、コンビニで買ったあんパンを頬張りながら校舎に入ったら、祐子のお母さんが出てくるところに鉢合わせた。

「あ、丸木戸先生。お会いできてよかったです。今日はお礼に伺ったところなんです」

急いであんパンを飲み込んで言った。

「あの、お急ぎでなかったら、立ち話もなんですので、面談室の方へどうぞ」

どうやら、司馬校長が応対してくれていたようだが、俺と菅生君にお礼を、ということでわざわざ来てくださったので、せっかくなので再度俺が応対した。

「先生、ありがとうございました。お蔭さまでやっとやる気になったみたいで、春期講習の間、ちゃんと勉強するようになりました。先生からいただいた理科と社会の問題集を講習中に全部やるんだっていって」

「あ、それはよかった。今日、やったものを持ってくるように指示してありますんで、見てみます」

「お願いします。あの、先程、校長先生にお菓子をお渡ししてありますので、つまらないものですが、どうぞ召し上がってくださいね」

「ありがとうございます。わざわざお越しいただいた上に。でも祐子ちゃんはその気になれば、あっという間に上位層に追いつきますよ。それだけのものを持ってるお子さんです」

「そう言っていただけるとうれしいです。あの、先生、もう授業なんじゃないですか。私、これでおいとましますから」

そそくさと退室されるおかあさんを出口までお見送りをして、講師室に戻ったら、司馬校長がお母さんの持ってきたお菓子の箱をくれた。自分の席について開けてみたら・・・中身は最中だった。二日酔いの上にあんパンを食って、この上、最中まで食ったら100%胸焼けだ。祟られたな。カラオケ地獄の次はあんこ地獄か。まあ、食わなきゃいいのだが。


 今日から早速、通常授業の再開であるが、授業開始の少し前に予定通り祐子が理社の春期の課題を持ってきた。内容的にはあまり難しいものではなく、ざっと全体を見渡せるようなものを与えてある。簡単に目を通してみるとなかなかよくできていた。

「いいじゃないか。でもやった後でもよくわからないところあるんじゃないか?」

頭のいい子なので、自分が何をわかっていないのか、ある程度自覚があるだろう。それも確かめてみたかった。

「はい。あの、天気の変化の露点のところと、電流の並列のところが、今いちよくわかりません」

「うん。じゃそこは土曜日の早い時間に補習しよう。早速今週から始めるぞ」

「はい。ありがとうございます」

「ただ、1対1じゃなく、何人か集めるかもしれないから、そのつもりでな」

「は~い」

やはり、祐子はわかっていた。自分の理解不足を自覚できる子は、当然だが伸びるのが早い。厳しい目で自分を見ることなんて、大人だってできちゃいないもんだ。元々頭のいい子だが、演劇の経験も大きな糧のなっていると思う。夕べの三溜主任じゃないが、「なりきり」と同時に、客観性も要求されるからだ。

 さて、ちょっと専門的な話になるが、祐子がよくわからないといった2点は、確かにわかりづらい箇所である。参考のために、なぜわかりにくいのか言っておくと、まず前者だが、よく参考書やテキストに載っている「空気の成分」という帯グラフがあるが、これに水蒸気が含まれていないことが説明されていない。あのグラフは空気の成分のうち、水蒸気を省いたものの割合を表している。なぜそうなっているのかと言えば、水蒸気の割合は気温によって大きく変動するからなのだ。このことを板書(ばんしょ:黒板やホワイトボードに「書いて」説明することを塾業界ではこういう)して視覚的に訴えることを最初にする方がいい。ご家庭でお子さんに説明するときもこの点を押さえてもらうと後がスムーズに進むだろう。後者は、そもそも回路が並列になっているということは電気抵抗が高校で習う(習わない場合もある)「調和平均」を個数で割ったものなので、普通には難しい。調和平均とは簡単に言うと割合と割合の平均なので、特殊なのだ。これを小学生に説明するにはちょっとばかり工夫がいるので、お父さんが公式を振りかざして説明しても悪影響しか生まないだろう。ここは餅は餅屋でわれわれに任せていただいた方が助かる。

 ついでにもう一つ。話しておくにはいい機会なので言っておくと、小学生に「方程式」による解法を教えるのはひかえて欲しい。算数でつまづいたお子さんにご家庭で指導する機会もあると思うが、「どうせ中学で習うのだから、今からやっとけばいいだろう」とか「○○算、□□算なんて別々に教えないで方程式でやったら全部カタがつく」ということでXやYを持ち出して教えるのは、後で困ったことを引き起こす。我々の経験上で言うと、途中から算数が伸びなくなってしまうのだ。これは、マイナスの処理、とかそういう話ではなく、子供の脳の発達段階と関係があるらしい。小さいうちはなんでも口で復唱しながらものを覚えるものだ。これは人間が言葉をあやつる生き物だからで、幼少期は脳の聴覚と言語野が発達していく。だから2年生で九九を習うときもみんなで復唱して覚えるのが効果的なのだ。その後10才くらいから数年間、ちょうど中学受験と重なる辺りになると、今度は脳の視覚野が発達し始める。この時期は「視覚化」して教えることが大事なポイントになってくる。線分図や面積図、速さの問題におけるダイヤグラムの活用、加重平均を「天秤」で解く、など中学入試特有の解法が使われるのはこのためだ。その後、13才くらいからようやく「抽象化」「論理思考」といった部分が発達し始める。中学で方程式を習うのは時期的に理にかなった話なのだ。この点を押さえておかないと大人の感覚で方程式を持ち込んでも、子供の脳の発達段階とかみ合わず、「伸びない」という現象を引き起こしてしまうという訳だ。あまりこういう説明は塾の方でもご父兄に向かってしないので、この点、中学入試の受験生をお持ちのおとうさん、おかあさんはご承知置き願いたい。



 



 講習の合間をぬって、志望校の確定していない二人のおかあさんとそれぞれ面談し、この件について相談した。

 まず、春生であるが、私学は受けないとの話だったが、直前の1月には大きな模試がないので「試し受験(予行演習)」として1月のどこか(千葉、埼玉、もしくは地方の学校の東京受験)を受けることを強くお勧めした。入学を前提としなくても模試代わりに受けられる土佐塾中の東京受験などのどれかを受けてもらうことになるだろう。私立の上位校ならば大手の進学塾でオープンにやっている志望校別講座の最終模試が1月にあるが、国立と公立にはそれがない。冬期講習や正月特訓の成果を測るためにも、やはり本番さながらの雰囲気で受けることは重要で、これは全員に言えることだ。肝心の第一志望だが、公立の中高一貫校の入試は他の入試と大きく性質が異なるので、対策も全く別になる。国立中との併願だと虻蜂取らずになる可能性が高いので、どちらかに決めた方がよいが、その点は賢明なお母さんはよく理解してくださって、夏期講習までの様子を見て秋口に判断するとの計画になった。大まかに見て、1学期までが各科目の単元学習で、夏期講習はその全復習と掘り下げ、9月から志望校対策に入る、というのがオーソドックスな道筋だからだ。

 公立の中高一貫校の入試の特徴だが、まず、問題がやさしい。塾で習った公式やら解法などは全く要らないが、自分の目で観察して、判断して、自分の言葉で自分なりの意見を言えるかどうか、そういうことを聞いてくる内容だ。あくまで公立の小学校で習う範囲で答えられるように構成されている。これに対応するには一般の受験勉強とは切り離した対策がどうしても要る。6年間の授業料が安いこと、それなりにレベルの高い子が集まってくることが人気を呼んで、入試の倍率は大体10倍くらいになっているから、やさしい問題だとなめてかかると間違いなく痛い目に合う。

 一方、国立校だが、筑波大附属駒場中は首都圏の、というより東日本の男子の最高峰であり、まだ平均点辺りをうろうろしている春生に狙わせる対象ではない。となると消去法で筑波大附属か学芸大附属3校のいずれかとなるが、春生の場合は世田谷校が一番近所だ。ここもトップレベルの学校で今の成績では到底無理なのだが、奴には大きな伸びしろがある。普通なら話にもならないほどだが、俺の感覚でいうと年末くらいには奴の偏差値は4科で10くらい上がると予想している。本番間際にはもっと肉迫するだろう。となるとまるきり勝負にならない訳じゃない。潜在能力の高さ、今低迷している理由が幼さにあること、性格の素直さ、などから俺が割り出した予想だ。だが、学芸大学の付属校には気をつけなければならない点が一つある。附属の高校に推薦で進学できる数が上位3割~5割ほどなのだ。世田谷校の場合は5割くらいだろう。もし上位半数に入れなかったら、高校入試を受けて他校に進学することになる。せっかく中学入試で合格したのに半数はまた受験なのだ。この場合、公立の高校を受けるにはものすごく分が悪い。校内の順位が平均以下なので、学力的には一般の公立中学ならトップレベルにいたはずの子が、内申点は良くて平均、悪いと平均を下回ることになってしまう。したがって狙うのはまず内申の関係ない私立の名門校となり、そのためには塾に通ってまた受験勉強をすることになる。これでは中学入試で合格したうま味がない。それならいっそ受験せずに地元の公立中に進んで塾に通った方が内申点を稼げるから公立のトップ校(都立日比谷高など)も狙えて得だ、となってしまう。だから、俺は学芸大学の付属中を志望する場合、合格後、上位半分に必ず入れる子に限って勧めている。この点も厳しい目に見て9月初旬に判断しよう。今、奴に必要なのは、これから先のジャンプアップのための体力も含めた基礎作りだ。本人もやる気満々である。初日こそ夜の授業でまた完全に寝てしまったが、二日目からは頑張って最後まで受けている。講習途中にやってくる4月1日の誕生日までは、まだ10才なのでちょっとかわいそうだが、仕方ない。がんばってもらおう。


 そして、祐子の方だが、実は兄と姉がいて、いずれも優秀で私立の有名校に通っている。だからといってお母さんは別段拘りがある訳でなく、本人の性格に合った学校ならばどこでもいいという考えなのだが、そうは言ってもやはりある程度は賢い子が集まってくる学校に進ませたいだろう。本人はお姉ちゃんと同じパターンで一日の女子学院中と三日の慶應義塾中等部を考えているらしい。理科の偏差値32で普通なら耳を疑うような話だが、俺は「あり」だと思っている。そこでお母さんとは、当面、本人の希望を尊重しつつ、今後の状況を見て判断していく、との方針で了解をいただいた。ちなみに慶應の中等部は、男女で難しさが大きく異なる。男子でも難関だが、女子にとっては最難関だ。首都圏の女子御三家と言われる、桜蔭、女子学院(よくJGと略称される)、雙葉があるが難度で言えばJGと同じくらいか。入試問題に特徴があり、マークシート方式ではないがこれと似たような解答形式をとっている。また、比較的素直な問題が並び、その代わり合格ラインが異常に高い。ミスの許されない高得点勝負だ。大人でも答えられないような難解な問題が続く桜蔭とはタイプが真逆であり、一方、スピード勝負のJGとは共通点があるので、JG、中等部という併願は女子のトップ層ではよくある受け方だ。祐子の場合、地頭は大変よい子なので、やり方さえ間違えなければ現状からの大逆転はありうる。そのためにも、国語は当面大丈夫なので、理社の基礎の作り直しと算数の基本の徹底が春の課題だ。賢い子なので、今何をするべきかは一度説明すればしっかり理解できるだろう。個別の宿題として理社の平易かつ問題量も少なめの問題集を与えて自分で春期講習中に仕上げるように指示することにした。


  

 連日の朝から夜までの長丁場が続く中、だんだん身体が講習のペースに慣れてきた頃、お昼休みに教室がにわかに騒がしくなった。お昼の弁当タイムは生徒達はもとより俺たち講師陣にとっても楽しみな時間だ。かといって野放しにしていると遠足みたいな楽しげな気分がはびこって収集がつかなくなるので、時々見回りにいって静かに食べて、休み時間の後半は自習するように管理している。だが、このときは食べ始める前のタイミングでワーワー言い出したので教室にいってみると男子どもが騒いでいる。

「ラブレターだ! 先生、春ちゃんがラブレターもらってるよ~!」

「あ~~、見ないで~。見ないで~!」

どうやら本当に春生が手紙みたいなものを隠そうとしている。ほんまかいな。ひょっとして女子から見るとやっぱり丸まっちくて小柄な奴は可愛いのかな?しかし一番奥手のこいつがラブレターをもらうとは。

「弁当箱の上に置いてあったんだよ!」

と南出が言う。

「どれどれ、見せてみろ」

「だめ~~!取らないで~~!」

と抵抗する春生から無理矢理強奪して、その手紙を見てみると

「春ちゃんへ」

とお母さんの字で書いてある。

「あ~~、読まないで~!」

バカ。こんなもん声に出して読んだら俺の方が泣いちまうよ。

「ああ、これはコゲラに餌を与えるときの注意事項が書いてあるものだ」

「うそだ」

「本当だ。ラブレターじゃないから、お前らもう騒ぐな。それから他のもんはこれ読んじゃいかんぞ!」

「え~~!?先生だって無理矢理取り上げたじゃん」

「ああ、それは、だ。俺はいいんだ」

「え~~~!なんで~~~?」

「うるせえ!俺はいいけど、お前らはだめなんだ!」

織田がめずらしく

「それは不公平だ」

とつぶやいた。

「どうでもいいんだ! それともお前らは俺みたいになりてえのか!?」

と強引にどなったら、大悟が

「・・・・なりたくねえ・・・・」

とポソっと言った。

「俺みたいな人間になりたくなかったら、さっさと食って勉強してろ!!」

そう大声で言って、春生に手紙を返して教室を出た。もっとましな対応はできないものか。俺もだめだなあ。春生のお母さんが書き添えた手紙ということで、心が動揺したのかもしれない。まあいい。今日の午後からは菅生君の担当だから、それでなんとか熱りが冷めるだろう。講師控え室から朝買ったコンビニ弁当を持って屋上に上がった。

 お母さんの手作り弁当か。いいもんだなあ。それにひきかえ・・・なまぬるく冷めた鮭弁当をほお張り、気持ちのモヤモヤといっしょくたに飲み込むのであった。



 


 ここで、春期講習に入る直前の各人の成績と志望校その他の情報を書いておこう。数値は直近の模試の科目ごとの偏差値である。

織田。国語64 算数66 社会72 理科67。 

 立派なもんである。志望校は筑波大学附属駒場中。おそらく首都圏の男子トップ層のパターン、2月1日開成、2日聖光学院、3日筑駒という受け方になるだろう。理社、特に社会が強いのは、鉄道好きの子によく見られる傾向で、彼ら「鉄っちゃん」にとっては塾で習う地理なんてお茶の子さいさいだろうし、理科の力学系も電流系も興味を持って勉強できるのが強みだ。理社の強い子は本番に強いし、タイプとしては国立向きと言える。慶應義塾普通部に対しても配点が100点均一なので有利だが、織田の場合は、お父さんの意向もあって私学のエリートコースは考えていない。盤石に見える織田だが、長年やっている俺から見ると精神的にやや線の細いところがあり、そこが心配ではある。少し潔癖すぎるのだ。清濁合い飲む、そんな図太さが欲しい。


大悟。国語45 算数62 社会38 理科58。

 国社が壊滅状態だ。帰国生だからある程度は仕方ないが、奴がうちに来たのは10ヶ月も前だ。その間、何をしてきたのか?地頭(じあたま、潜在能力の意味の受験界用語)はいいのに、おそらく苦手科目に面白くない部分があって、怠けて来たのだろう。特に社会は目も当てられない。興味のないことはとりあえず後回し、という奴の性格がそのまま表れている。算理はいいのにバランスが悪いことこの上ない。マイペースな性格なので自由な校風の麻布中を志望しているが、この国語ではどうだろう。麻布という学校は4科すべてにおいて国語力の差が出るような問題を出してくる。マイペースというより、大人のような目線の高い子、もっと言えば大人の言うことを鵜呑みにせず、その本質を見抜いてしまう、だからこそ少しばかりやんちゃに見える、そんな子を求めている学校だ。奴には向いていないと思うが。


飯田。国語56 算数52 社会55 理科44。

 彼の場合、国語はずっとこのくらいで上がりも下がりもしない。社会がややいいのは今回の出題範囲が得意の歴史中心で、特に好きな戦国時代の話が出たからだろう。理科が平均を下回っているのは明らかな勉強不足。せっかくの社会のアドバンテージを理科で食い潰しているかたちだ。サボるなよ、まったく。志望校は兄貴が通う駒場東邦中だが、もちろんこのままではとうてい無理。本気でやれば状況は変わるはずなのだが、まだまだ精神的に幼いところがあって、いつエンジンをかけさせるか、彼の場合、これにつきるだろう。ひょんなことから涙で始まった春期。ここでどう変われるのか、期待しよう。


春生。国語48 算数51 社会47 理科45。

ずっと4科揃って平均以下であったが、今回初めて算数が平均を超えてきた。今、クラスで一番燃えている男だが、成績はまだまだである。とは言え、素直な性格を考えると早い時期に変革があるかもしれない。一番上がりにくいと思われた算数が微増ながら上がったことはプラス要因と考えていいだろう。ここでさらに、「僕にもできるんだ」という自信をつけさせるために短期で結果が出やすい理社を春期で集中的にがんばらせる手はある。菅生君とこの点は相談しておこう。志望校だが、ご家庭の事情で私立の名門校は経済的に厳しいらしく、おそらく国立かあるいは公立の中高一貫校になるだろう。共稼ぎだが、文献などの資料代もかかるようで裕福な家庭ではないようだ。そう言えば、俺の大学の恩師も「サラリー全部本代に消えたよ」なんておっしゃってたな。春生のご両親もお金儲けにはあまり縁がなさそうな感じはする。


南出。国語51 算数47 社会49 理科42。

どんぐりの背比べを一人でやっているような成績だが、彼の場合、理科が悪いのはサボっているからではなく、本当に苦手なのだ。生物や星座などの知識系でなんとか稼いでようやくこの成績だ。電流や水溶液、力学となると手が付かない。これは春期に俺がテコ入れするしかないだろう。春生と一緒に補習するか。志望校はどこかの大学附属校ということで特にここという希望はない。日大の芸術学部を狙って日大系の学校を推薦してみようかと思う。日芸と言えば一般入試の倍率が20倍にも達する超難関だが、練馬区の江古田にあり、周辺には漫画界のレジェンド達ゆかりの場所も多い。俺も彼の地に10年以上住んでいたのでいろいろ伝え聞いた話はある。本人は学校とか大学ではなく、漫画家になることを志望しているので、この辺りをちらつかせてやる気を誘う作戦だ。「ここでがんばれば将来、日芸に推薦で入れるかもよ」という具合に。現実にはそんな甘い訳はないが。


充。 国語45 算数40 社会46 理科41。

性格も地味だが成績も地味だ。やる気がない訳じゃないし、志望校も国学院久我山とはっきりしている。なのになかなか成績が伸びてこない。これでは塾に対する不満も出てくるだろう。今回の春期講習で一定の成績アップがなければ、おそらくお父さんが乗り込んでこられるだろう。実は以前からお父さんが塾に来てクレームをいただくことがあった。充のお父さんは年齢が高く、中年になってからのお子さんらしい。お父さんの不満は、成績不振だけでなく、志望校についてもあって、

「高い授業料を払って勉強させているのに早稲田や慶應くらい入れられなくてどうすんだ、あんた達は!」

ということなのだが、要約すると塾なんて本来必要ないものだ。学校は有名じゃなくては行かせる意味がない。そうおっしゃっているのだ。俺たちとしてはお考えに反論も大いにあるのだが、相手はお金を頂戴しているお客様だ。ひらにひらにご容赦を願うしかない。ただ、充本人はよその塾には行きたくないらしく、「今の塾はやめない」と頑なに言うのだそうだ。普段無口なあいつが彼なりに俺たちを慕ってくれているのかと思うと「なんとかしてやらなきゃ」という気持ちになるが、だんだん静かな火薬庫みたいな存在になりつつある。


りる。国語55 算数46 社会57 理科41

彼女の場合、出来、不出来の波が激しく、どこかの科目がよくてもどこか別の科目ではずして総合的にはいつも普通に落ち着いている。今回は社会が当って、理科がはずれた。国算についても同様で、苦手科目があるわけでも得意科目があるわけでもない。どの科目もアップダウンが激しくあるのだ。うまく持って行けば入試で大当たり連発という可能性もあるが、逆に下手をすると大はずれ連発で撃沈することも考えられる。こいつも小さな爆弾みたいな存在だ。志望校はお母さんの出身校である晃華学園と公立の桜修館中をあげている。いずれも難関校で相当頑張らないと厳しい。本人は女子ばっかりという環境が嫌なので、渋谷学園渋谷中と慶應義塾中等部をあげていたが高すぎてお母さんに却下されたらしい。兄貴の受験を経験されているので、こういうところは家庭内の指導が生きていると思う。


かえで。国語62 算数52 社会58 理科55。

苦手の算数で初めて50を超えた。今回は褒めてあげていいだろう。身体もそうだが精神的にも成長が早く、しっかりした子なので大崩れはないはずだが、女子は総じて博打のような受験の仕方は向いていないから、もう少し上げておきたい。志望校は大妻中、立教女子をあげている。いい選択だと思う。大妻はプールがない、制服が可愛い、という理由らしい。こいつは泳げないのだ。これはりるからのリークだが、体育の水泳が嫌で、生理中だと嘘をついて休んだらしいが、女子が水泳を休んでいると囃し立てるバカな男子がいたらしく(昔からあり勝ちな話だが)二重に嫌な思いをしたらしい。そして後日、別件(誰かをいじめたとからしい)でこの男をつかまえて激しく抗議し、そのあまりの圧力にこの男子はみんなの前で泣いたそうだ。恐ろしや。


ナナ。国語58 算数53 社会55 理科51。

理科がやや弱いが、単元で区切られている科目なので、これは補強しやすい。今のところまあまあいいんじゃないかと思う。志望校は大学の附属校を望んでいる。おっとりした性格のわりにりると同じく女子中は好みではないらしく、共学校志望。そしてスポーツガールらしく、グランドの広いところ、という希望もある。この三つの条件を備えた学校として明治大学附属明治中を選んだ。今の成績ではまだ足りないが、手が届かない範囲ではない。順調にいけば冬には合格圏にいけるか。そして女子の場合、通学の距離と経路も大事だ。都心に向かう方向と下り列車で通えるのとでは負担がかなり違うし、満員電車でない方が安全でもある。ナナのように誰もが目を引かれるような美人だと都心の学校は別の意味の危険もある。彼女の自宅から見て、明大明治ならこの点もクリアしているので、志望校としてはこれで決まりだろう。


祐子。国語67 算数47 社会40 理科32。

なんと国語は織田を大きく抜いてうちの校舎でトップだ。あとの科目は勉強自体をやる、やらないでもめていたことが原因で低迷している。それにしても理科が32とはどうだ。おそらく途中で放棄したのだろう。なんて奴だ。国語ができるのは大人に交じって仕事をしてきたことと、地頭のよさの両方が理由だろう。受験勉強を頑張る方向で本人も納得したはずなので、これからの爆進撃に期待したい。現時点のこの成績は彼女の場合、あまり意味を持たない。眠れる獅子なのだ。女子なのにジャンボ鶴田みたいな奴だ(俺も古いな)。



 さて、春期講習が進む中、ナナが休み時間に質問にきた。といっても内容は勉強や志望校のことではなかった。

「先生、野鳥に詳しいですか?」

「普通の人より、ちょこっとくらいは詳しいかもな」

それは理科の講師だからというよりも、俺の趣味が釣りだからだ。海釣りも人から誘われればやるが、主には川釣りが好きでフライフィッシングをへたくそだがやっている。だから、川で見かける昆虫や鳥達にはほんの少しだけ知識はある。

「うちの庭に最近よく来る鳥がなんていうのか知りたいんです」

「どんな鳥なのか言ってごらん」

「え~っと、スズメくらいの大きさで、スズメみたいな顔で・・・」

「そりゃスズメだろう」

「違います、違います。色が白と黒のまだらで赤い線みたいなのがあって・・・」

「ん~。それだけじゃわからんなあ」

「あ、じゃ、おとうさんが撮ったビデオを明日持ってきます。それ見てください」

「うん。その方が早いな。でも見てもわからんかもしれんぞ」

「は~い」

という訳で、翌日、朝の授業が始まる前に教室でナナの持って来たホームビデオを見た。たまたまその場にいたりるとかえで、南出と充も一緒にビデオのモニターを覗き込んだ。

「ああ、これはコゲラだな。ケラっていうキツツキの仲間の一番小さいやつだ。赤いのが付いてるのがオスだ」

「へえ~。コゲラっていうんだ。キツツキっていうよりスズメみたい」

そこで俺はあることに気付いたのだが、南出も同じことを感じたようで先に口走った。

「この鳥、なんか春ちゃんに似てない?春ちゃんそっくりだよ」

まったく、こういう感性は流石である。言い得て妙なり。みんな一斉に笑ったが、確かにまるまっちい体型といい、頭の感じといい、目の可愛さといい、春生の印象と重なる。しかもあいつは最近、黒と白のボーダー柄のTシャツを着ているから尚のことであった。みんなが笑っているところに春生が登塾してきたので、

「コゲラ君だ」

とか

「コゲラモドキだ」

とか言われ、キョトンとした顔をしていたが、それ以来、「コゲラ」が彼のあだ名になった。


 そうこうしているうちに、あっという間に三月も半ばになった。来週からはもう春期講習が始まる。そこでかねてからの予定通り、6年生のために今年の卒業生、楠田正一郎を校舎に呼んで、檄を飛ばしてもらうことにした。算数の時間の最後を15分ほど削って、みんなの前で話してもらう段取りだ。学校の登校日だったらしく、制服姿で現れた正一郎を見て、生徒たちから

「あ。臙脂の校章だ」

というささやきがもれた。子供達にとってはこんな細かいことも憧れの対象なのだろう。

「知っている人も多いと思うが、君たちの先輩の楠田君がみんなを励ましにきてくれた。わざわざこのために来てくれたんだから、みんなしっかりお話を聞くように。後で質問コーナーを設けるから、聞きたいことがある人はそこで手をあげて聞いてくれ。いいかな?それじゃ、お願いします」

少し照れたような笑みを俺の方に見せた正一郎だが、すぐに後輩達に向かって堂々と話し始めた。まだ13才にもなっていない子供らしい横顔には、見蕩れてしまうほどの頼もしさがあった。

「こんにちは。早稲田大学高等学院中学部の楠田正一郎です。今日は、みなさんに二つのことを聞いていただきたいと思います。一つは、みなさんには全員、ものすごい可能性があるということです。一年間という時間は、一所懸命になって過ごせば、信じられないくらい大きな変化を与えてくれます。僕なんか6年の初め頃は全然できなかったし、うちの学校なんて目標というよりも遥か彼方の夢みたいだった。それでも最後には、こんな僕でも合格できたんです。みなさんも頑張ればきっと高い目標に合格できると思います。絶対に受かる、なんて言えないけど、その可能性は充分あると僕は思います」


 生徒たちの顔を見て驚いた。全員がこんなに集中して真剣な表情で食い入るように人の話を聞いているところは見たことがない。


「もう一つは、始めるんなら一日でも早い方がいいということです。中には、あんまり早くからガリガリ勉強してもどこかで疲れちゃうんじゃないか、って思う人もいるかもしれません。でも勉強って、まあ勉強だけじゃなくて他のことでもなんでもそうなんだと思いますけど、やればやるほど、次の課題が出てくるんです。やってないと何が自分の課題なのかわからない。そういうもんなんです。だから後から後から山ほど出てくる課題を少しでも多くクリアして、少しでも上にいきたいと思ったら、できるだけ早く始めた方がいいんです」


 前回の保護者会同様、話の内容は彼に任せてある。しかし、なんていい話をしてくれるんだろう。全く感心してしまう。元々、国語はできる子だったが、それにしてもだ。塾講師の俺たちが伝えたいようなことを過不足なく、ものすごい説得力で話しているんだから、まったく恐れ入る。

 生徒たちの反応も予想以上だ。皆、目を輝かせている。中でも一番真剣な顔をしているのは、織田だ。だから、おまえはいいんだって、もう。

 感心して聞いているうちに予定の時間が過ぎ、質問コーナーになった。

たくさんのまっすぐな手が上がった。

「あの、苦手科目とか苦手単元とかはありましたか?あったら、どうやって解決したんですか?」

あのバカタレの大悟とは思えないようなちゃんとした質問だ。

「僕は算数が苦手でしたね。国語はまあまあだったんですが、いつも算数が足を引っ張って4科の偏差値が上がらなかった。特に図形が苦手で、全く解けなかった。僕って、センスとか全然ないんですよ。他の人達みたいにひらめきっていうのがなくて、習ったことをそのままやることしかできないんです。だから、丸木戸先生にお願いしてできるだけたくさんの解き方をプリントで書いてもらって、何回も練習しました。これは春期講習とか夏期講習とかの学校が休みで時間があるときにやりましたね」


 そうだ、そうなんだよな。なによりも努力家だったんだ、正一郎は。自習室でいつもカリカリやっていた後ろ姿を思い出したら、ぐっときてしまった。


「しんどいとかつらいと思ったときとか、やめたくなったことはありましたか?」

いつものほほんとしているりるも真剣なまなざしである。

「う~ん。それはもう、いっぱいありましたね。僕は10月くらいまであんまり成績が上がらなかったんです。やってもやってもほんのちょこっとしか上がらない。逆に下がったりした事も何回かありました。泣きそうになりましたよ何回も。でも塾に来て授業に出たり、自習室で勉強してるとなんだかだんだん気持ちが強くなれて。だから頑張れた。でも、一番つらかったのは1月校に落ちたときでしたね。泣きそうじゃなくて、あの時はほんとにガンガン泣きました。目の前が真っ暗になりましたね」


「じゃあ、うれしかったことはなんですか?」

めったに口をきかない充まで質問だ。

「それはもう。みんなわかると思うけど、早稲田に受かったときです。3日の慶應中等部を受けにいってて校門を出たところで発表を見にいってたおかあさんから携帯に連絡が入ったんです。ヤッターー!!って道の真ん中で叫んじゃいました。みんなこっちを見てたけど、そんなのどうでもよかった。うれしくてうれしくて、帰り道では、確かに地面を踏んで歩いてるんだけど、なんだか足が地面から離れて体が宙に浮いてるみたいな感じなんです。ほんとに。あんな感覚は初めてでした」


 次から次の質問攻めで、結局、次の休み時間が終わるまで、正一郎は離してもらえず、国語の授業の開始チャイムが鳴ってやっとお役御免となった。


「いやあ、本当にありがとう正一郎。すごくよかったよ。みんなの刺激になった」

様子を聞いていた司馬校長も

「楠田君、ありがとう。これは感謝のしるしだ」

といって、図書カードを渡した。塾から出るわけはないから、校長の自前だろう。出口の階段まで正一郎を送って、改めて礼をいった。

「ありがとうな。しかしおまえ、人前で立派に話せるじゃないか。感心したぞ」

「いいえそんな。でも僕、塾に本当にお世話になったから。塾のおかげで受かったんですから、みんなを励ますくらいはさせてもらわなくちゃ。先生、呼んでくださって、ありがとうございました」

「うん。またな。たまには顔をみせてくれよ」

「はあい」

階段を降りて去っていく正一郎の背中を見て、1ヶ月前よりも少し大きくなったなと思った。この年齢だから短期間で大きくなるのはある話なのだが、彼には自分の未来をつかんだ、という自信と心の張りがみなぎっている。それが背中に現れているのだろう。去年の今頃は目立たない新6年生だったのに、この成長ぶりだ。うれしいもんである。正一郎の背中を見送って、なんだか満ち足りた思いを感じていた。そうなのだ。俺たちは、いつもつい生徒に与えているつもりになっているが、その実、生徒からもっと大きなものを与えてもらっているのだ。


 教室の前に戻ってみると、菅生君の国語の授業を受けている連中の後ろ姿がすごい。まるで「気」の柱が立っているようだ。菅生君もいつも以上にテンションがあがってるようだった。


 翌日は6年受験組の授業はない日だったが、自習室をみるとなんと満席になっていた。みんな塾に来て自習室に籠って勉強しているのだ。正一郎効果は絶大だった。まあ、いつまで続くかは怪しいもんだが、今の状態はすこぶる良好。大いに結構だ。

 

 昼に春生のおかあさんから電話をいただいた。おかあさんは受験をやらせる気になっていたものの、どうもおとうさんがしぶい表情だったらしいが、夕べ春生自身がおとうさんに

「最後まで一所懸命がんばるから、やらせてください」

と直談判したらしい。我が子にこんなことを言われて、それを拒む親などいない。志望校はまだともかく、一年間受験勉強をがんばる、ということになったそうだ。奴も早速、自習室に来てカリカリやっている。あとで眠くなってうつらうつらしないうちに励ましにいってやろう。来週からはいよいよ春期講習が始まる。いい状態で講習に入れそうだ。正一郎には改めて感謝している。


 

 講習期間中は学校がないので、当然、朝から授業がある。俺たち講師や事務スタッフは、通常は夕方前からの勤務なのが、朝からの勤務に切り替えになる。毎晩、仕事の後に飲みにいく俺や菅生くんは特に生活の切り替えを強いられるから、最初だけちょっとキツイ。この機会に言っておくが、塾の先生には大きく分けて二種類ある。タイプとかそういう話ではなく、制度上の話だ。一つは司馬校長のような、塾に社員として雇われている先生だ。社員であるから勤務時間も大概午前からで、日によって本部に集まって会議やら、半期ごとの収益ノルマやら、生徒を教える事以外にいろいろ校舎運営にまつわる業務がある。そのかわり諸々の社会保障は会社がもってくれる。

もう一つは俺や菅生くんのような、授業だけで雇われているバイト扱いの講師だ。時間講師とかいうのだが、これは会社運営の諸事を免除されているので気楽だが、そのかわり社会保障もボーナスもない。まあ、フリーターなのだ。もちろん生徒や父兄から見て、同じでなければならないし、指導力、授業のうまさなどは制度の違いとは関係がない。人にもよるが、時間講師は授業だけしかやらないから夜型人間になっているケースが多く、朝からの授業が始まると初日が少々きついという訳だ。菅生くんなんか若いから前日飲んでてもへっちゃらそうだが、俺は40ともなるとやっぱり影響は出る。じゃあ、講習前日は飲まずに早く寝るか、といえば、まあそんな性格だったらそもそもこんな浮き草稼業の時間講師などやっていないだろう。講習前日は、通常授業終了おつかれ会(そんな名前つけてる訳じゃないが)でいつもより勢いよく飲んでしまった。


 翌朝、なんとか目覚まし時計に反応して、シャワーを浴びて、出勤してきたものの気分はシャキっとしない。当たり前だな。こういうバカを何度くり返してきた事か。このままでは講習初日のテンションを上げられないので、ビルの屋上にいって軽く体操をすることにした。体を動かして朝の空気をいっぱい吸い込んだら、少し気分が良くなってきたので、ボチボチ戻ることにして外階段を降りようとしたら、そこによく見ないとわからない程度の、でもちょっと見て欲しそうな微妙な大きさの落書きを発見した。といってもただ「アホ バカ」と書いてあるだけの何のひねりもない、至ってシンプルなものだが、ついこの間来たときにはなかったから、ごく最近に書かれたようだ。どうも何かに腹が立って怒りをぶちまけた、という感じではなく、何か落書きをしたくて、なのにこれしか思いつけなかった、という儚さが漂っている。こんなことする奴は、といえば真っ先にバカタレの大悟の顔が浮かぶが、これは奴の字じゃない。それに考えてみればあいつは、陰に隠れて何か悪さをするタイプでもない。人が見ていようがいまいが関係なく我が道をいく。それが周囲とずれていようが、何をいわれようが、知ったこっちゃない。そういう奴だ。字をよく見てみるとどうやらこれは飯田の文字っぽい。だがそれだけでは確たる証拠とは言いづらいし、これでいきなり飯田を叱りつける訳にはいかないだろう。落書き自体もいけないことだが、それ以前に生徒にとって外階段と屋上は進入禁止区域のはずだ。まずこの線で当って反応を見てみることにした。

 授業は、予定通り初日らしくテンション上げ目でスタートした。みんなそれなりに集中して受けている。小1時間ほど経ったところで、問題を解かせているときに

「ところでおまえら、最近、塾の中をうろちょろしてやしないだろうな?」

と切り出してみた。さりげなく飯田の顔を見たが、無表情のままだ。これは怪しい。みんな「なんのこと?」という風にキョトンとした顔をしている中、飯田だけ無表情なのは瞬間的に「やばい」と思ったからに違いない。全員の顔を見渡すと、もう一人、南出が下を向いて問題を解こうとしている。これも同犯のようだ。俺が授業中に勉強以外のことをしゃべったとき、いつもそれだけは真っ先に反応する南出が、今回に限って問題に集中しているなんて、どう考えても不自然だ。どうやらこの二人で外階段からの進入禁止区域に入り込んだようだ。飯田の奴、証拠を残してきた事をきっと悔やんでいることだろう。もちろん今、授業中にみんなの前で取り調べを始める訳にはいかない。めぼしはついた。昼休みに二人を面談室に呼び出すことにした。


 校舎の屋内から外階段に至るルートは、二つ。一つは階段に直接出るドアだが、これは生徒が持てない鍵がかかっているので無理だろう。もう一つは給湯室の窓から外に這い出て狭い軒の上をつたって階段にたどり着く経路だ。給湯室は正確にいうと生徒は入れないことになっているが、ゴミを置いておくスペースにもなっており、時々生徒も何かのゴミをここに捨てにくることがある。グレーゾーンなのだ。ここを通って外階段に行ったのはまず間違いないだろう。お弁当タイムの後、飯田と南出の二人を面談室に呼んで取り調べに入った。神妙な面持ちで並んだ雁首二つを前に、できるだけ威圧感を出しつつ切り出した。

「おまえら二人、何日か前に屋上に行っただろ」

「・・・・・・・」

「外階段と屋上は生徒の進入禁止だって知ってるはずだ」

「・・・・・・・」

「禁止されてるのに、なんでそんなことしたんだ」

俺の精一杯の威圧もあって、知らぬ存ぜぬでは通せないと観念したか、飯田が話し出した。

「・・あの給湯室に割り箸とか捨てにいって、そしたら、僕の腕時計がパンってはじけて、どっかに行ってしまって、南出と二人で探してて、窓の外に飛んだんじゃないかって、探しに行って・・・」

「はあ? 南出。それは本当か?」

「・・・本当です」

「ほおう。じゃ、この話、君らのおかあさんに報告してもいいんだな。腕にベルトで付けてるはずの時計が何故かパンってはじけて、何故か窓の外まで飛んで、地球の重力に逆らって屋上にまで行ったかもしれなくて、それを捜索に行ったって。それで間違いないな」

「・・・・・・・」

「あのな。おまえらは軽く考えてるかも知らんが、あそこは危険だから生徒が行っちゃいけないことになっとるんだ。あそこから何かの拍子に落ちたりしたらどうするんだ?」

「・・・・・・・」

「地面のコンクリートに頭ぶつけて死ぬぞ」

「・・・・・・・」

「おまえらが頭割って死んだら、おかあさんはどんな思いすると思ってんだ!」

ここで二人ともヒクヒク泣き出した。男子なんで、あともう一歩、突っ込んでおこう。

「いいか。おまえらもこないだの先輩の話聞いて、自分も頑張ろうって思ったんだろう。多分、屋上に行ったのはその前のことだな。だったら今回は、誰にも言わないで俺だけの胸にしまっといてやる。そのかわり、今後は真剣に勉強に取り組め!俺や菅生先生から見て、『おう、飯田も南出も変わったな』って思えるくらいにやってみろ!」

二人ともヒクヒク泣きが止まらない。

「春期講習中も、それから先も、ちょっとでも気を抜いたら・・・そのときは、わかってんな!」

泣きながら二人揃って首を縦に振った。ま、この辺でよかろう。

「わかったら、教室に戻って、次の授業の準備をしてろ。それから、飯田。おまえ、もうちょっとはマシな言い訳考えろよ、まったく」

まあ、これで春期講習中は効き目があるだろう。大悟さえ抑えておけば、比較的楽に、余計なエネルギーを使わずに進めていけそうだ。


 6年生の春期講習には大きく二つの目的がある。5年生までとは大きく違う授業時間と宿題量に学校がない期間を使って慣れさせること。そして、各科目とも単元学習の難度がガラっと変わるので、その基礎を作っておくこと。この2点だ。学習量が突然倍増するのに対応できるには、やはり一緒にやるクラス仲間があった方がいい。自分一人ではめげてしまう。そして、中学入試というのはどの科目も大体中3~高校2年くらいまでの学習内容をこなすものだ。算数で言えば、等差数列の和やフィボナッチ数列など、俺自身は高校で習ったものが普通に出てくる。小学生でこれらを応用できるようになるには、それなりに基礎固めの時間が必要なのだ。この春期講習を乗り切ったら、学校の新学期を迎え、夜の時間帯にシフトを戻して、7月前半の大きな模試に向けて単元学習を急ぎ足で進んで一旦完了させる。そして7月下旬からは、受験の天王山、夏期講習に入る。こう見てくると春期講習のおろそかならざる重要性がわかると思う。しかし、生徒達にこういう話し方をしてもそれをリアルに納得できる子はごく小数だ。うちで言えば織田くらいだろう。だから何かのモチベーション作りが必要なのだ。今回は正一郎の力を借りることができたし、さっきの両名も思わぬ一件で引き締めた。今のところ、なんとかクリアできている、としておこう。しかし、まだ春期講習の初日だ。俺自身の気持ちも引き締めてかからないと全行程17日は長く、厳しい。




 さて、いよいよ新しい学年がスタートした訳だが、ここで改めて今年の主要スタッフと受験生メンバーを紹介しておこう。


 まず、俺。丸木戸貞雄40才。3年前に妻を病気で亡くし、現在独身。子供はいない。学生時代からずっと進学塾で数学と理科の授業を担当してきた。大学受験、高校受験と、すべてやってきたが、ここ何年かは中学入試の算数と理科が専門みたいになっている。

 

 そして我が相棒、菅生今蔵29才。国語と社会担当。彼も学生時代のバイトで塾講師になって、そのまま教え続けている。有能で熱血漢。そして毎晩でも酒につあってくれる好男児だ。実は日本の最高学府出身だそうで、なんでこんな仕事をしているのか、不思議だが(でもないが)、どうやら人にものを教えるのが性に合っているらしい。

 

 校長の司馬至48才。塾業界で校長と言えば、一般企業での課長にあたる。元々は自身も塾講師であり、うわさではかなりの熱血、というか有り体に言えば、げんこつ厭わずの「こわい」先生だったそうだ。校舎運営のいそがしい中、今でも数は少ないが授業をもっている。中間管理職ながら、スパルタ講師時代の面影をその言動に残している。

 

 事務主任の三溜静香。冷静沈着で、暴走しがちな講師陣を抑えつつ、クールに事を運ぶ、頼れる司令塔。なかなかの美人。才色兼備で言うことないのであるが、ただあの一点、「あれ」さえなければ・・・・。


 さてここで6年受験組の生徒たちを紹介するにあたって、5年生のときに菅生君が彼らに書かせた作文を使ってみよう。題は、「将来の夢」だったそうだ。彼らの夢をごく簡単に要約して紹介すると、


織田

「困っている人を助けられる人物になりたい」

織田らしい。さらに

「鉄道関係の仕事につきたい」

とある。やつは鉄道マニアなのだ。鉄道マニアにもいろいろカテゴリーがあるが、彼の場合は車両そのものに興味の対象があるようだ。困っている人を助けられる鉄道関係の人か。う~ん。答えは本人に任せよう。


南出(みなみで、と読む)

「漫画家になりたい」

これも南出らしい。彼のおとうさんは何かのデザイナーだそうで、本人もよく絵を描いているが、なかなか上手だと思う。ただし、これとあのギャグセンスで本当に漫画家になれるのかどうかはまったく未知数。成績の方は中の下くらい。


春生(はるき)

「航空パイロットになりたい」

まあ、男の子によくある話だ。春生は仲良しの南出と一緒に入間基地でブルーインパルスの展示飛行を見たらしい。いたく感動したようで、その話を拙い文章で一所懸命に書いている。


飯田  こいつは「普通、地味」と前の項で省略されたうちの一人。

「研究者になって、ノーベル賞をとりたい」

そのわりにあまり勉強しない。兄弟を比較しちゃよくないが、彼の兄は優秀で都内の有名進学校に通っている。かつての俺の教え子だ。しかし本人は現在のところ、そこまでの成績ではない。まあ、中の上といったところ。ノーベル賞までの道は遠い。


充(みつる)  同じく省略された一人。

「国学院久我山中に受かって、ラグビー部に入る」

こいつは本当に地味だ。ほとんどしゃべらないし、めったに笑わない。しかし、男子で一人だけ目の前の現実的なことを書いている。彼は地元のクラブチームで少年ラグビーをやっている。それで全国制覇の実績がある国学院久我山に憧れているようだ。「入りたい」ではなく、「入る」と書いている。ただし、成績の方はまったく届かず低迷中。


大悟

「大悟様帝国を筑いて、絶体権力者になるたい」

バカタレが。こいつだけがふざけたことを書いて、作文なのに菅生君からバツをつけられている。帰国生とはいえ、漢字もめちゃくちゃ過ぎる。「筑いて」じゃなくて「築いて」だし、「絶体権力者」じゃなくて「絶対権力者」だ。語尾も「なる」と「なりたい」を迷った挙げ句、消し損いに書き損ないが重なって「なるたい」になっている。これじゃ、博多弁だろうが。書き直しを命じられたはずだが、なんて書き直したのかは不明。こいつ、サボって書いてないんじゃないか・・・・。


続いて女子。総じて女の子の方が現実的な夢だ。これはいつの時代も同じか。


りる

「背が高くなりたい」

まあ、そうかな。

「女子中よりも、共学中の方が入りたい」

こいつはスポーツマンの兄がいるせいか、わりと男っぽい面があって、6年間女子ばっかりは嫌なんだそうだ。女子大の附属中だと10年間女子ばっかりだからもっと嫌だろう。共学よりも女子中の方が入りやすいんだが。まあ、そこはがんばってもらおう。


かえで

「ミッション系の学校にいきたい」

やっぱり女子にこの線は多い。

「セーラー服とブレザーはどっちでもいいから、デザインのかっこいいところがいい」

感受性の強い10代の6年間、気に入らない制服を着て過ごすのは、女の子にとって大きくマイナスになるようだ。昔、俺は「服装なんかで学校を選ぶな!」と言っていたが、これは亡くなった妻に諭された。

「それはね、女の子にとって大切なことなのよ」

ってね。


ナナ   省略された残りの一人。

「陸上部に入って、選手になりたい」

実は、このナナ。全然地味じゃない。性格は大人しく、至って普通なのだが、見た目が目立っている。俺は欧州系のハーフなんだと思い込んでいた。本人から純然たる日本人なのだときいて、少し驚いた。髪の色も目の色もかなり薄い茶色だし、目鼻立ちがすごくはっきりしている。色白で、頭の形もモンゴロイド風の丸い形ではなく、西洋人っぽいから、俺が間違えたのもしょうがないと思う。父兄面談でご両親に会ってみると、二人とも確かに純然たる日本人だが、どちらも少し外人っぽい部分があり、お二人のその要素が娘に結集したようだ。クラシックバレエをずっとやっており、しゃべり方がおっとりしていて、いかにもお嬢様っぽいが、本人の希望からもわかるように、実はスポーツウーマンで、かなり運動はできるらしい。成績は、まあそこそこ。学年を問わず、塾内の男子の多くが彼女に視線を注ぐ。


 祐子はこのかなり後に入ってきたので、作文は当然ないのだが、もしもっと早くうちに来て、書かされていたら、なんて書いたんだろう。俳優を目指すつもりだったんだろうか?ちょっと興味の湧くところだ。しかし、大人びているから、さして面白くもないことを書いたのかもしれない。


 さて、ここで早くもある問題が起きた。

春生である。おかあさんから、面談の申し入れがあり、お会いしてみると、

「あの、受験をやめさせようかと思っています」

というお話。塾に不満があって退塾希望、というのとは違って受験そのものをやめるという。何か事情がありそうだ。

「もともと、お友達の南出君に誘われて、こちらにお世話になって、一年間楽しく通わせていただいたんですが、本人も「どこに入りたい」というはっきりした志望校がある訳でもないし、私たちとしては、無理に中学受験させたくない考えなんです。だとしたら、このまま、受験クラスにいても周囲の方にご迷惑をおかけするだけだし、あまり長引かないうちに辞めさせた方がいいのでは、と思いまして。」

「そうですか・・・・。中学受験させたくない、とおっしゃるのは?」

「あの子には向いてないと思うんです。それよりも何か、スポーツとか他のことをやらせて、もう少し本人が成長するのを待って、高校受験で頑張らせた方がいいのではないかと。あの子、幼いですから」

 春生のご両親は、ともに学者だ。専門はよく知らないが、お二人とも大学で教えていらっしゃる。さすがに、いつも理路整然としていて、決して思いつきや感覚でものをいうタイプではない。よくよく考えてのことだろう。俺たちが何か言って、引き止める隙間はなさそうだ。それにおかあさんの言う通り、春生に中学入試は向いていないと俺も思う。そもそも中学入試なんて、ませた子の方が有利に決まっているのだ。春生のように奥手なタイプは、高校入試や大学入試で頭角を現すものだし、もっと言えば、本当に自分の本領を発揮するのは大学に入ってからかもしれない。無理に青田刈りの中学入試でガリガリやらせるより、何か運動でもやった方がいい。その方が自然だ。丸ぽちゃの幼児体型で、どう見てもスポーツが得意そうには見えない春生だが、男の子は中学、高校でガラッと変わるから、何かやっていれば少しはたのもしくなるかもしれない。

「なにも有名中学に入らなくても、本人が興味を持って、やる気になったときに勉強してくれればいいんです。それに、勉強がしたいんだったら、それはどこでだってできますから」

聞いていてこちらの胸がすっきりする程の学者らしい正確な意見だ。学校のネームヴァリューにばかりこだわって、そこしか見ていないような親たちに聞かせたいくらいだ。

「お話、よくわかりました。それでは、退塾ということにされますか。それともうちに通塾日数の少ない一般クラスというのもありまして、そこにクラス替えされる方法もありますが」

「同じ塾の中で、クラス替えするのは本人が嫌がるんじゃないでしょうか?」

「そうですね。お薦めしておいて申し上げるのもなんですが、やっぱり嫌でしょうね。きっぱり辞められた方がいいですね。彼とはこのお話はされましたか?」

「はい。したんですが、それが、どうも続けたいようなことを言いまして。やっぱり、お友達に置いていかれるように感じるのか・・・・。」

「私も一度、ご本人とお話ししてみます。しかし、お月謝の方は既に第一期分として春期講習の前まで、いただいておりますので、そうですねえ、ちょうど学校の学年が変わるタイミングで退塾、というかたちで、よろしいでしょうか?」

「わかりました。本当に先生方にはお世話になりまして、ありがとうございました。特に丸木戸先生にはかわいがっていただいて。春生も先生のこと大好きなんですよ。いつもうちで先生のことを話してくれます。いい先生に出会えてよかったって感謝しておりました。なのに途中で辞めることになってしまって。申し訳ありません」

「なにをおっしゃいまして。私も彼がいなくなるのは寂しい限りですが、ご判断に誤りはないと思います」

「そう言っていただけると・・・。本当にどうもありがとうございました」


 そうかあ。まあ、うすうすあり得る話と感じてはいたが、実際にあいつがいなくなると思うと、正直寂しい。思えば、気持ちのまっすぐな、性分のいい子だった。模試で平均点をとるのがまずはの目標、というくらいの成績だったが、それはすべて幼さが原因で、頭はいい子だった。鍛えれば、どんな風に「化ける」のか楽しみでもあった。

しかし、これもご両親が本人のためを思って下した判断だ。仕方ない。問題は、続けたがっているというやつの気持ちだ。志望校については、どこか憧れの学校があるというのではなく、おそらく全くの白紙だろう。続けたい、という理由が「みんながやっているから自分もやりたい」ということなら、ご両親の判断にしたがうよう説得した方がいい。そうではなくて、なにかあるのか、そこがまだ本人と話してみなければわからない。


 数日後、授業の合間に、春生に声をかけてみた。

「春生。お前、おかあさんに何か言われてるだろ」

「え。なんのこと?」

「あれだよ。塾辞めるっていう話」

「・・・・。僕、辞めないよ」

「おとうさんとおかあさんは受験させないっていってるんじゃないのか?」

「だって、おかあさんは、どこも行きたい学校がないんだったら辞めなさいって言ったんだもん」

「お前、どこか志望校あるのか?」

「うん。あるけど、秘密」

「ばか。受験の指導者に志望校を秘密にしてどうすんだよ。言ってごらん。誰にも言わないから」

「どこの中学がいいのかわかんない」

「なんだ。志望校ないんじゃないかよ。ってことは、どこでもいいからどこかに入りたいってことか?」

「ん~~。そうじゃない。どこでもよくはない」

「じゃ、どんなとこがいいんだ?附属の学校なのか、進学校なのか、言ってみな」

「進学校。行きたい学校がある」

「だからそれがどこの中学校なんだよ」

「中学校はわかんない」

「ん?・・・・あ。お前が行きたいって学校は、大学なのか。行きたい大学があるから進学校にいきたいんだ」

「そう」

「ってことは、行きたい大学は国立だな。じゃ、東大か?」

「まさか。東大じゃない」

「ひょっとして、お茶の水女子大学じゃないだろうな。お前には絶対無理だぞ」

「当たり前じゃん!違うよ。秘密。でもいいとこだから、いい進学校に入るんだ」

ここで、次の後コマのチャイムが鳴った。すぐ春生を教室にもどして、俺も別の授業に向かった。


 みんながやるから自分もやりたい、というのではなかった。そこまで幼くはなかった訳で、その点はほっとしたが、さて、少しばかりやっかいになりそうだ。おかあさんとの面談の結果は修正が入る可能性がでてきた。


 翌日、春生のおかあさんに電話してみた。

「春生君、どこか行きたい大学があるみたいですね。それでどこかの進学校を受けたい、ってことのようです」

「ええ。さっきまでそのことで本人と話していたんですが、喧嘩になってしまって。あの子が行きたい大学っていうのが、どうも現実味のない話で。防衛大学にいきたいんですって」

「ええ!それはまた、どこから出てきた話なんですか?私はてっきりお父さまがお勤めの大学かと思ってました」

「ええ。そんなことを言ってた時期もあるんですけど。誰から防衛大学のことを聞いてきたかわからないんですけど、あの、ブルーインパルスのパイロットになりたいらしいんです」

「あ。そういうことか」

「なんとも子供っぽい話で、申し訳ありません」

「いえいえ、立派な動機ですよ。そうか、そうなんだ。おかあさん、少し私にまかせていただけませんか。彼の気持ちが本気で一年間頑張れるだけの強いものなのか、確かめてみたいんです」

「ええ。私たちだって、あの子が本気でやりたいんなら、そうしてやりたいと思っています。先生の目から見てどう思われるか、是非、話を聞いてやってください」


 物事、何に限らず、やっているうちに本物になってくるってことは大いにある。春生の夢だって、今は子供の幼い夢だが、頑張っているうちに何かに成長していくことだってあるだろう。ただ、防衛大の採用試験はまだずっと先の話だ。そのために中学受験をする必要はないし、あいつの潜在能力なら特になにかしなくても高3の段階では射程圏内に入ってるんじゃないかと思う。本人の気持ちに水をさすようなことは言いたくないが、実際の状況や可能性を伝えることはやっておくべきだ。


 二日後、また春生と話してみた。今度は面談室に呼び出して1対1で話した。

「おまえ防衛大学校にいきたいんなら、高校入試から頑張ったっていいんじゃないのか?」

「んー。でも今頑張りたい」

「そうか。おまえがやる気出してるのに、先生の方からやめろっていう理由はない。頑張んなさい。でも、おまえ本当にやれるんだろうな。途中でつらくなって、やっぱりやめたって言うんじゃないだろうな」

「やる」

「夏期講習とかしんどいぞ。400時間とか勉強するんだぞ。それから先ももっと勉強するんだぞ」

「えー!そんなにするの? でもやる」

「防衛大の採用試験にはな、すごくつらいものもあるんだぞ。知ってるか?」

「体育のテストのこと?」

「ああ。それもある。だけど、もっといやなのもあるんだぞ」

「・・・え。・・・どんなの?」

「あのな。お医者さんの身体検査でな・・・ちんちんを調べられるんだぞ」

「ええ!?そんなのある訳ないよ!」

「それがあるんだよ。しかも、ちょっとみるだけじゃないんだぞ。じっくりたんねんにみるんだぞ」

「げげ。そんなのうそだ!」

「ばか。受験の指導者が進路のことでうそつくか。本当なんだよ。それでもやるか?」

「うう・・・。やる。がんばる」


 こんなことを言うつもりじゃなかったんだが、俺も本当にバカだな。つい勢いで知ってる面白話を出してしまった。しかし言ってしまったものはしょうがない。まあ、春生の覚悟を試す材料にはなったか。ただ、とてもおかあさんに報告できる内容じゃない。電話するのは、もう少し、待ってもらうことにしよう。※


 どこの進学塾でも大体似たり寄ったりだが、6年生になると週のうち2日が算数、国語で1日が理科社会になっていて、これがレギュラーの授業だ。うちの場合、いずれも夕方から前コマ100分があって、お弁当を食べてから、後コマ100分をやる。算国の日と国算の日があり、理社の日と合計で週に600分の授業時間となる。これに追々、土曜特訓だとか日曜日の志望校別対策授業なんかが増えるから各コマで出される宿題や学校も入れると受験生は本当に勉強漬けの毎日だ。今はまだ土日が空いているが、それでも5年生までは授業中にころあいを見てとっていた4、5分の休憩を6年生からはなしでやるから、100分ぶっ続けの授業を2連コマだ。この時間に慣れるまで生徒たちには結構きついはずだ。今日の授業でも、頑張る宣言をした春生だが、後コマの終わりが近づくにつれて、次第に目がトロンとしてきて、しまいには視点が定まらなくなり、こっくりこっくりし始めた。4月1日生まれのこいつは実質まだ4年生の終わりくらいの成長段階なのだろう。そっとしておいてやったらついに机に顔をつけて寝てしまった。

「先生~。春ちゃん、寝ちゃったよ」

となりの南出が春生を指差して小声で訴えているが、

「ああ。春生にはこの辺が限界だろう。寝かしといてやれ。後で宿題とか教えてやれよ」

「は~い」

春生の顔を覗き込んで、その白目をむいた寝顔のものまねをする南出にみんな吹き出しそうになったが、ここはこらえて静かに授業を続けた。


 



※ 現在の防衛大学校の採用試験には、この身体検査はありません。